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第32話「ソロの日と、見えなかった袖」

十一月の、音楽会の朝。


目が覚めて、最初にやったのは、のどの調子の確認だった。


「あー」


いつもの、低い声だ。


そのまま、布団の中でしばらく、天井を見ていた。


今日は、ユウタの日だ。


オレが緊張しても、しかたない。


しかたないのに、おなかのあたりが、ぐるぐる鳴っていた。


「ヒロキー! ごはんー!」


「はーい!」


台所には、焦げた卵焼きと、父さんの、ネクタイ姿があった。


「父さん、今日、会社は?」


「休みをとった。ヒロキの学校の音楽会だ」


「オレが歌うわけじゃないよ」


「ユウタくんの歌を、聞きに行くんだ」


父さんは、ビデオカメラを、でんと、テーブルに置いた。


肩にのせる、あのでっかいやつだ。


「父さん、それ、また、泣いて、ぶれるやつ」


「ぶれてもいい。母さんに、見せるんだ」


「…………」


父さんは、箪笥の上の写真を、ちらっと見た。


ミキが、卵焼きを、ひと切れ、写真の前に、置いた。


「おかあさん、きょうは、ユウタくんの、日だよ」


写真の母さんは、いつもどおり、笑っていた。


体育館は、朝から、ざわざわしていた。


床に、ずらっと、パイプ椅子。


保護者席は、もう、ほとんど、埋まっている。


ステージの、赤い幕。


その袖に、5年2組が、整列した。


オレは、いちばん、袖に近い、列にいた。


「ヒロキ、手、つめたい」


となりで、ユウタが、ぼそっと、言った。


「ユウタのほうが、つめたい」


「どっちも、つめたいね」


「あったまろうか」


オレは、ユウタの手を、両手で、包んだ。


ユウタは、ふっと、笑った。


えくぼが、ぽこっと、浮かんだ。


「ヒロキ」


「うん」


「ぼく、もし、声が、出なくなっても」


「うん」


「ぼくのこと、へたくそって、思わない?」


「思わない」


「ぜったい?」


「ぜったい。声が出なくても、オレは、ここで、見てる」


「…………うん」


ユウタは、すうっと、息を、すった。


「じゃあ、いってくる」


「いってらっしゃい」


その言い方が、母さんの「いってらっしゃい」に、似ていた。


プログラムは、順番に、進んでいった。


1年生の、かわいい合奏。


2年生の、ミキの学年の、元気すぎる合唱。


ミキは、いちばん前の列で、いちばん大きな口をあけて歌っていた。


「ミキ、声、でかすぎ」


袖で、こっそり、笑った。


3年生。


4年生。


そして、5年2組の番が、きた。


幕が、あがる。


ライトが、まぶしい。


オレは、ステージの、いちばん端の、袖に、立っていた。


ユウタは、前列の、まんなか。


ピアノの、前奏が、はじまった。


マツモト先生の、指が、やさしく、鍵盤を、おどる。


オレは、ユウタの、背中を、じっと、見た。


細い、背中。


ちょっと、ふるえている。


ふるえが、肩まで、のぼっていくのが、わかった。


「うさぎ、おいし、かのやま」


クラスの、みんなの、声が、ひびいた。


ブッチの、でかい声が、ちょっと、はみ出している。


カワシマの、山賊ボイス。


ヤマグチさんの、きっちりした、声。


ハヤシさんの、やわらかい声。


そして、ソロパートの、前の、小節。


ピアノが、すっと、静かに、なった。


みんなの声が、ふっと、消えた。


体育館が、しーんと、した。


ユウタが、一歩、前に、出た。


オレは、ここで、ひとつ、勘ちがいをしていた。


名刺に、書いてあった、「ヒロキは、泣きすぎて、袖で、見えなかった」。


あれは、「感動して、泣く」という意味だと、思っていた。


ちがった。


ちがうんだ。


ユウタが、息を、すった、その瞬間。


オレの、視界が、ぐにゃっと、にじんだ。


「…………あれ」


まだ、歌ってもいないのに。


涙が、ぼろぼろ、出てきた。


ユウタの、細い背中が。


あの、夕日の、教室で、「……そっか。ごめんね」って、言った、背中と、重なった。


小さな、肩。


謝らなくて、いいことで、謝っていた、背中。


その背中が、いま、体育館の、まんなかで、一歩、前に、出ている。


「…………っ」


声は、出さなかった。


でも、視界が、完全に、ぐしゃぐしゃになった。


「ふるさとの、……」


ユウタの、声が、はじまった。


高くて、すんでいて。


どこまでも、まっすぐ。


体育館の、いちばん、うしろの壁まで、届く声だった。


でも、オレは、ユウタの、姿が、見えなかった。


涙で、ぜんぶ、にじんで。


見えるのは、ライトの、まるい、光だけ。


「名刺のとおりじゃん…………」


オレは、袖の、カーテンで、顔を、おさえた。


それでも、声は、聞こえた。


「こぶな、つりし、かのかわ」


ひと言ごとに、胸の、奥が、あつくなった。


「ゆめは、いまも、めぐりて」


声が、ふるえた。


ほんの、少しだけ。


でも、とぎれなかった。


オレは、カーテンから、顔を、ちょっとだけ、出した。


涙を、手の甲で、ぐいっと、ぬぐった。


ステージの、ユウタが、見えた。


目を、閉じていた。


口を、大きく、ひらいて。


胸を、はって。


「わすれがたき、ふるさと」


最後の、一音。


のばして、のばして、のばして、消えていった。


静かに、息が、止まったみたいな、数秒。


そして。


体育館が、爆発した。


拍手。


拍手。


拍手。


ざわざわ、というより、地面が、揺れるくらいの、拍手だった。


どこかで、お父さんが、立ちあがって、「ブラボー!」と、叫んだ。


ブッチの、泣き声が、ステージの、上から、聞こえた。


「うええええええ」


「ブッチ、うるさい」


ヤマグチさんの、声。


でも、ヤマグチさんの、声も、鼻声だった。


最後の、一音だけは、見えた。


名刺の予告は、ほぼ、当たっていて、ちょっとだけ、外れた。


幕が、おりた。


袖に、はけてきたユウタは、ぽかんと、していた。


「…………歌えた」


「うん」


「ぼく、歌えた」


「うん」


「ヒロキ」


「うん」


「見ててくれた?」


オレは、答えようと、して、口を、ひらいた。


でも、声が、でなかった。


代わりに、鼻水が、でた。


「…………最後の、一音だけ」


「えっ」


「ごめん。ほかは、泣きすぎて、見えなかった」


ユウタは、ぽかん、として、それから、ぷっと、ふきだした。


「なにそれ」


「名刺に、書いてあったんだ」


「めいし?」


「あ、いや、夢の中で」


「また夢かー」


「でも、ほんとに、最後の一音は、見えた。きれいだった」


「…………それ、いちばん、いいとこだよ」


ユウタは、涙を、こぼしながら、笑った。


「ヒロキ、鼻水、ついてる」


「ごめん」


「でも、ありがとう」


ユウタは、オレの、袖で、自分の、涙を、ごしごし、ふいた。


「それ、オレの袖」


「いいの」


「よくない」


ふたりで、笑った。


ブッチが、走ってきて、ふたりを、いっぺんに、抱きしめた。


「ユウタあああ! ヒロキいいい!」


「ブッチ、重い」


「重いのは、愛だ」


「いらない愛だ」


ヤマグチさんが、ノートを、ぱらっと、めくった。


「議事録に、記録します。『ユウタくん、ソロ成功。ブッチくん、号泣』」


「やめてえええ」


体育館の、ロビーで、父さんと、ミキが、待っていた。


父さんの、ビデオカメラは、案の定、画面が、ぶれまくっていた。


「見て、ヒロキ。ユウタくんの、顔が、ぜんぶ、天井になってる」


「泣いて、ぶれたんだね」


「そうだ。だが、声は、ばっちり、入ってる」


「うん」


「母さんに、聞かせる」


「…………うん」


ミキが、ぴょんと、ユウタの前に、出た。


「ユウタくん、すごかった!」


「ありがとう、ミキちゃん」


「わたしの、うんとこしょ、より、すごかった!」


「それは、くらべちゃ、だめ」


「でも、すごかった!」


ユウタは、照れて、笑った。


えくぼが、ぽこっと、深かった。


その後ろから、静かに、近づいてくる、人影が、あった。


水色の、ワンピース。


ユウタに、よく似た、色白の、顔。


「…………ユウタ」


「お母さん!」


ユウタの、お母さんだった。


目が、真っ赤だった。


「…………すごかった」


「うん」


「あなた、こんな声、してたのね」


「うん」


「お母さん、知らなかった」


お母さんは、ユウタを、そっと、抱きしめた。


ユウタは、お母さんの、肩に、顔を、うずめた。


「ぼく、へたくそじゃ、なかった」


「ええ。ぜんぜん」


「ヒロキが、言ってくれたんだ」


「…………ヒロキくんが」


お母さんは、顔を、あげて、オレを、見た。


深々と、頭を、下げてくれた。


「ありがとう、ヒロキくん」


「いえ、オレは、なにも」


「ユウタが、最近、毎日、楽しそうなの。ヒロキくんの、おかげです」


「…………」


オレは、ちょっと、困って、父さんを、見た。


父さんは、ビデオカメラを、構えて、ぼろぼろ、泣いていた。


「ヒロキ」


「うん」


「母さんが、見てたら、なんて、言うかな」


「…………」


「『よかったわね』って、言うと、思う」


「うん。そうだね」


「ヒロキ、えらいな」


「オレじゃ、ないよ。ユウタが、えらい」


「ヒロキもだ」


父さんは、でかい手で、オレの、頭を、ぽんぽん、叩いた。


夜。


財布を、ひらいた。


白紙の、名刺入れの、すみに、また、うっすら、文字が、浮かんでいた。


『ユウタの、ソロ、録音テープ 一本』


「…………録音?」


ロビーで、父さんが、小型の、テープレコーダーを、まわしていたことを、思い出した。


ビデオカメラとは、別に。


『ヒロキの、宝物』


名刺の、一番下に、そう、書いてあった。


「…………はは」


宝物が、また、ひとつ、増えた。


でも、今度は、財布の中に、入る、物じゃない。


オレの、これから、つくっていく、日々の中に、ある、宝物。


ふすまが、すっと、あいた。


ミキだった。


パジャマ姿で、ふくろうの、ぬいぐるみを、抱いている。


「お兄ちゃん、ねむれない」


「そっか」


「おなか、ぐるぐるする」


「音楽会の、あとだから、きっと、興奮してるんだ」


「こうふん?」


「うれしくて、ドキドキしてるってこと」


「ふーん」


ミキは、布団の、すみに、ごろんと、横になった。


「お兄ちゃん、いっしょに、ねていい?」


「いいよ」


「ふくろう、半分、貸してあげる」


「ありがと」


ミキが、ぬいぐるみの、耳を、ひとつ、オレの、手に、握らせた。


ふわふわ、あったかい。


「お兄ちゃん」


「うん」


「おかあさんに、きょうの、はなし、した?」


「…………まだ」


「あとで、しよ」


「うん」


「あとで、って、言ったの、いまのは、ちゃんとした、あとでだよ」


「…………え?」


「だって、あした、ちゃんと、するから」


ミキは、にっと、笑った。


「きょうの、『あとで』は、ちゃんと、守る、あとで」


「…………そうだな」


「うん」


「ちゃんと、守る、あとで、だな」


オレは、ミキの、頭を、そっと、なでた。


ミキは、すぐに、寝息を、たてはじめた。


小さな、前歯の、すきまから、すーすー、息が、もれる。


オレは、しばらく、その寝顔を、見ていた。


そして、箪笥の、写真に、向かって、小さく、つぶやいた。


「母さん。ユウタ、歌ったよ」


返事は、なかった。


でも、窓の外で、虫が、ひとつ、りーん、と、鳴いた。


そして、遠くの、観覧車の、ライトが、ちかっと、またたいた気が、した。


気のせいでも、よかった。


ミキの、寝息を、聞きながら、オレも、ゆっくり、目を、閉じた。


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