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第31話 後編

ピアノの、前奏が、聞こえた。


それから。


ユウタの、声。


「うさぎ、おいし、かのやま」


高くて、すんでいて、まっすぐ。


でも、今日は、ちょっとだけ、ふるえていた。


声が、ところどころ、とぎれる。


「…………ごめんなさい、もう一回」


「いいのよ。ゆっくりね」


もう一回。


ピアノ。


歌。


また、とぎれる。


もう一回。


とぎれる。


「…………ぼく、やっぱり」


ユウタの声が、ふるえた。


「ぼく、できません」


壁の、こちら側で、ブッチが、拳を、ぎゅっと、にぎった。


ヤマグチさんが、ノートを、ぱたん、と、閉じた。


ハヤシさんが、口に、手を、あてた。


オレは、立ち上がった。


「ヒロキ?」


「ちょっと、行ってくる」


「え、でも、見ちゃ、だめって」


「見るんじゃない。いっしょに、いるだけ」


ドアを、そっと、あけた。


ユウタが、ピアノの、そばで、うつむいていた。


マツモト先生が、困った顔で、振りむいた。


「あら、さくまくん」


「すみません。先生」


オレは、ユウタの、そばに、行った。


「ユウタ」


「…………ヒロキ」


「ちょっと、聞いてて、いい?」


「…………」


「オレ、ここで、立ってる。歌わなくても、いい。ただ、そばに、いるだけ」


ユウタは、オレを、見た。


目が、うるんでいた。


「…………うん」


「じゃあ、先生、もう一回、お願いします」


「…………ええ」


マツモト先生は、ふんわり、笑って、鍵盤に、手を、おろした。


ピアノの、前奏。


ユウタは、息を、すった。


オレは、隣に、立ったまま、ただ、動かなかった。


目は、前を、向いたまま。


ユウタの、声が、聞こえてきた。


「うさぎ、おいし、かのやま」


さっきより、すこし、強い。


「こぶな、つりし、かのかわ」


まっすぐに、のびていく。


「ゆめは、いまも、めぐりて」


声が、ふるえた。


でも、とぎれなかった。


「わすれがたき、ふるさと」


最後の一音まで、歌いきった。


ピアノが、止まった。


静かな、音楽室の、窓から、夕日が、さしこんでいた。


「…………歌えた」


ユウタは、ぽつりと、言った。


「うん」


「ヒロキが、隣に、いてくれたから」


「ちがう。ユウタが、歌ったから」


「ううん、ヒロキが、いなかったら、無理だった」


ユウタは、ぎゅっと、オレの、手を、にぎった。


「ねえ、ヒロキ」


「うん」


「本番も、そばに、いてくれる?」


「…………」


胸が、ずきっとした。


本番は、二週間後。


オレは、そのときも、ここに、いるだろうか。


いや。


そうじゃない。


オレは、もう、決めたんだ。


ずっと、ここに、いる。


母さんが、そう言ってくれた。


「決めていいのよ」って。


「…………ああ」


オレは、うなずいた。


「ステージの、袖で、見てる」


「うん」


「ユウタが、見えるところに、立ってる」


「…………ありがとう」


ユウタは、にっこり、笑って、えくぼを、ぽこっと、浮かべた。


ドアの、むこうで、ブッチが、ばたん、と、倒れる、音が、した。


聞いていたらしい。


「ブッチくん」


マツモト先生が、ドアを、あけた。


「ほこりが、入りました?」


「はい、ほこりです」


「ここ、お掃除、必要ですね」


先生は、にっこり、笑った。


その夜。


宿題を、していたら、ミキが、部屋に、入ってきた。


「お兄ちゃん」


「ん?」


「きょう、学校でね、作文の、時間だったの」


「うん」


「『わたしの、かぞく』っていう、お題」


「へえ」


ミキは、ランドセルから、作文用紙を、取り出した。


「見て」


オレは、受け取った。


ひらがなが、ぐにゃぐにゃと、並んでいる。


『わたしの、かぞく』


『わたしの、かぞくは、おとうさんと、おにいちゃんと、わたしと、おかあさんです。』


「…………」


『おかあさんは、いま、てんごくに、います。でも、おかあさんは、わたしの、うしろに、います。』


『おにいちゃんは、ときどき、へんなこと、いいます。でも、おにいちゃんの、たまごやきは、こげてて、おいしいです。』


『おとうさんは、うまい、しか、いいません。でも、ぜんぶ、わかってる、かおを、してます。』


『わたしは、みじかいのが、すきです。だから、さくぶんも、ここまでです。』


「…………」


最後の一行で、ふきだした。


でも、読み終わったあと、目の奥が、つーんとした。


「ミキ」


「なに」


「これ、先生に、なんて言われた」


「『とても、いい作文ですね』って。みんなの前で、読んだよ」


「えっ」


「そしたら、先生が、泣いた」


「また、先生が、泣いたのか」


「うん。みんなも、泣いた」


「…………」


「なんで、泣くのか、わかんなかった」


ミキは、ふしぎそうに、首を、かしげた。


「わたし、ほんとのこと、書いただけなのに」


「それが、いいんだよ」


「そうなの?」


「そうなの」


オレは、ミキの、頭を、ぽんぽん、叩いた。


ミキは、にっと、笑った。


「お兄ちゃん、泣いてる?」


「泣いてない。ほこりだ」


「おうちに、ほこり、おおいね」


「おおい」


「そうじ、しよっか」


「…………うん」


ふたりで、笑った。


寝る前に、財布を、ひらいた。


名刺入れは、あいかわらず、ほとんど、白紙だった。


でも、ふと、気がついた。


白紙の、名刺の、すみに、ぼんやり、薄い文字が、浮かんでいる。


目を、こらした。


『水野優太 初ソロ 全校音楽会』


「…………」


息が、止まった。


『初ソロ』。


未来のページに、いま、ちょうど、書き加えられた、一行。


もう一枚、めくった。


『成功。 うしろの席で、ブッチが、号泣』


「ブッチ、号泣すんのか」


ひとりで、ツッコんだ。


でも、うれしかった。


そして、その、さらに、下に。


『ただし、ヒロキは、一曲目で、泣きすぎて、袖で、見えなかった。』


「…………見えなかったのかよ!」


大声で、言って、あわてて、口を、おさえた。


ふすまの向こうで、ミキが、「うるさーい」と、寝言で、言った。


「…………」


オレは、小さく、笑った。


名刺に、書かれた、未来は、少しずつ、変わっていく。


オレが、ここで、ふつうに、日々を、過ごすたびに。


いまは、もう、「なにが、起きるのか」を、知らなくて、いい。


この世界は、これから、オレが、一日ずつ、つくっていく。


ふつうの、日を。


「…………よし」


財布を、閉じて、枕もとに、置いた。


窓の外を、見た。


月が、でていた。


あの日と、同じ、月だった。


目を、閉じる前に、ふと、思った。


あれ。


明日の、給食の、献立は、なんだっけ。


思い出そうとして、やめた。


知らなくて、いい。


明日の、ひじきの味は、明日、食べて、確かめればいい。


そう思ったら、胸が、すーっと、軽くなった。


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