第31話「ふつうの日の、リコーダー」
十月の終わり。
朝の台所には、焦げた卵焼きのにおいがただよっていた。
「うまい」
「父さん、それしか言わないって」
「ミキ、おまえも毎日同じこと言ってるぞ。『こげてる』って」
「だって、こげてるもん」
「焦げ目はうちの味だ」
「それ、おかあさんのセリフ」
「……そうだったな」
父さんは、ちょっと黙って、卵焼きをもう一切れ口に入れた。
「うまい」
「また言った」
ミキがくすくす笑った。
オレも笑った。
母さんの写真は、箪笥の上から、ぜんぶ見ていた。
白いワンピースで、観覧車の前で、笑っている。
「いってきます」
写真に手を振るのが、毎朝の習慣になった。
玄関で靴をはきながら、オレはふと、立ち止まった。
あれ。
昨日、なにか、思い出そうとしていたことがあった。
なんだっけ。
営業第三課の、課長の名前。
毎週、会議でチクチク言ってきた、あの人の名前。
「……思い出せない」
顔は、ぼんやり浮かぶ。
メガネ。
ネクタイ。
声は、思い出せない。
「ヒロキ、遅刻するぞー!」
「はーい!」
返事をして、走り出した。
走りながら、気がついた。
思い出せなくて、ちょっとだけ、ほっとしていた。
でも、ちょっとだけ、さびしかった。
37年ぶんの記憶が、朝の霧みたいに、すこしずつ、うすくなっていく。
たぶん、そういうことなんだと思った。
学校の、朝の会。
タカハシ先生が、教卓に、プリントを置いた。
「えー、再来週の、音楽会の、プログラムが、決まりました」
教室が、ざわっとした。
「5年2組は、合唱『ふるさと』。そして」
先生は、一回、間をおいた。
「ソロパートを、ユウタに、お願いしたいと思っています」
「え」
ユウタの声が、裏返った。
教室中の目が、ユウタに、集まった。
ブッチが、飛びあがる。
「うおおお! ユウタ、すげー!」
「ぼ、ぼく?」
「マツモト先生が、推薦したんだ。音楽の時間に、ユウタの声を聞いて、決めたそうだ」
先生は、にっこり笑った。
「やってくれるか」
ユウタは、うつむいた。
えくぼが、ひっこんでいた。
指先が、体操服のすそを、ぎゅっと、にぎっていた。
あの癖だ。
以前見た、あの、ユウタの癖。
「…………ぼく」
「うん」
「ぼく、できるか、わかりません」
「そうか」
先生は、急かさなかった。
「返事は、明日でも、いいぞ」
「…………はい」
ユウタは、小さな声で、言った。
休み時間。
ユウタは、窓の外を、ぼんやり、見ていた。
オレは、隣に、立った。
「ユウタ」
「…………うん」
「こわい?」
「…………こわい」
ユウタは、窓ガラスに、おでこを、くっつけた。
「商店街で、歌ったときは、へいきだったのに」
「うん」
「でも、体育館で、全校のみんなの前で、ひとりだけって、思ったら、手が、ふるえてきた」
「うん」
オレは、なにも、言えなかった。
「大丈夫だ、できる」って、簡単に言うのは、ちがう気がした。
前のオレは、ユウタに、「へたくそ」って、言った。
いまのオレが、「できるよ」って言っても、それは、ただの、おまけの、言葉だ。
ふと、思い出した。
メロスのオーディションの日。
オレの手を、半分上げさせてくれた、ヤマグチさんの、あの一言。
「手が、半分、上がってますよ」
あれは、「やれ」じゃなかった。
ただ、「見てるよ」だった。
「…………ユウタ」
「うん」
「オレ、やるか、やらないかは、ユウタが、決めていいと思う」
「…………」
「どっちを、選んでも、オレは、ユウタの、友達だ」
ユウタは、窓ガラスから、おでこを、はなした。
オレを、じっと、見た。
「それだけ?」
「それだけ」
「みじかい」
「みじかく、って、言われてる」
ユウタが、ふっと、笑った。
えくぼが、ちょっとだけ、浮かんだ。
「……ありがとう。ちょっと、楽になった」
「そっか」
「でも、まだ、わかんない」
「うん。わかんなくて、いい」
ふたりで、窓の外を、見た。
校庭の、銀杏の木が、黄色く、色づいていた。
給食の時間。
献立は、ごはん、牛乳、鶏の唐揚げ、ひじきの煮物、みそ汁。
今日も、ひじきが、いた。
もう、怖くない。
もぐもぐ、食べた。
うまい。
「ヒロキ、ひじき、きょうも、ぜんぶ、食べた!」
ブッチが、毎回、実況してくる。
「ブッチ、もう、実況は、いらない」
「だって、すごいことだから!」
「毎日、すごくは、ない」
「毎日、すごいよ!」
そう言うブッチの、トレイを、見た。
にんじんが、ぜんぶ、残っていた。
「ブッチ。にんじん、がんばるって、言ってなかった?」
「…………きょうは、ハヤシさん、見てないから」
「基準が、そこか」
「だって、ハヤシさんが見てるとき、にんじんは、おいしくなるんだもん!」
「理屈が、ひどい」
斜め前の席で、ハヤシさんが、くすくす、笑っていた。
口に、手を、あてて。
ブッチは、それに、気づいた。
「…………」
固まった。
「ブッチ」
「…………」
「にんじん」
「…………たべる」
ブッチは、にんじんを、ぜんぶ、口に入れた。
涙目に、なりながら。
「おいしい!?」
「…………おいしい」
「ほら、見て」
「よくがんばりました」
ヤマグチさんが、ノートに、さらさら、書いた。
「議事録に、残します」
「やめてええええ」
昼休み。
校庭で、ドッジボールを、した。
最初のころは、すぐに、疲れた。
でも、毎日、走っているうちに、いまの体は、ちゃんと、走れるようになっていた。
37歳の体も、まだまだ、すてたもんじゃない。
ボールを、よけて、投げて、また、走る。
「ヒロキ、はやい!」
「走ってる!」
まじっ。
ほんとに、走れる。
ひざも、痛くない。
息も、あがらない。
37歳のころの、ひざの悲鳴が、うそみたいだった。
「…………」
走りながら、ふと、泣きそうになった。
こんなに、体が、軽かったんだな。
当たり前だった、ことの、ありがたさが、いまごろ、わかった。
「ヒロキ、危ない!」
ボールが、顔面に、とんできた。
ばしっ。
「ぶっ」
鼻に、ちょうど、あたった。
鼻血は、出なかった。
でも、じんじん、した。
「ヒロキー! 大丈夫!?」
「だ、だいじょうぶ……」
「いまの、すごい音した」
「ほこりが、はねた」
「どこがだ」
みんなが、笑った。
オレも、鼻を、おさえながら、笑った。
笑っているうちに、ふと、思った。
27年前の、ヒロキは、こんなふうに、毎日、笑っていたんだ。
あの頃の、オレは、毎日が、あたりまえすぎて、気がつかなかった。
でも、あたりまえの日が、いちばん、宝物だと、母さんは、言っていた。
放課後。
音楽室の、ピアノの、前に、ユウタが、立っていた。
マツモト先生が、鍵盤に、手を、のせている。
「じゃあ、ユウタくん、ちょっとだけ、歌って、みましょうか」
「はい」
「だいじょうぶ。誰も、聞いて、いないから」
「…………はい」
オレは、廊下の、ドアの、すきまから、のぞいていた。
ブッチも、ヤマグチさんも、ハヤシさんも、並んで、のぞいている。
「みんな、見るのは、やめよう」
「だって、気になる」
「ユウタが、見られてるって、気づいたら、緊張する」
「それは、そうです」
ヤマグチさんが、冷静に、うなずいた。
「では、聞くだけにしましょう」
「見ないで、聞く」
「それなら、いいかも」
四人で、ドアの、横の、壁に、背中を、つけて、座りこんだ。




