第30話 後編
ミキは、父さんの、胸で、声を出して、泣いていた。
父さんは、母さんの手を、にぎったまま、動かなかった。
オレは、廊下に、出た。
あの、ベンチに、座った。
となりには、誰も、いない。
でも、不思議と、ひとりじゃ、なかった。
背中に、あたたかい、手の、ぬくもりを、感じた。
誰も、いないのに。
「…………母さん」
声に、出した。
返事は、なかった。
でも、窓の外で、観覧車が、ゆっくり、まわっていた。
夜の、闇の中で、小さな、ライトが、ひとつずつ、ともっていた。
オレは、ベンチの、背もたれに、頭を、あずけた。
涙が、止まらなかった。
でも、胸の中は、不思議と、静かだった。
あとで、かけ直す、じゃなかった。
ちゃんと、そこに、いた。
それだけで、27年分の、重たいものが、ぜんぶ、ほどけていった。
どのくらい、時間が、たったのか。
足音が、した。
顔を、あげると、ブッチが、立っていた。
肩で、息をしている。
その後ろに、ユウタが、いた。
ヤマグチさんも。
ハヤシさんも。
サトウさん、カワシマ、イノウエくん。
そして、ゴウダまで。
「…………みんな」
「ヒロキの、お父さんが、うちに、電話くれたの」
ブッチが、ぜえぜえ、言った。
「それで、走ってきた」
「バスは?」
「間に合わなかったから、自転車」
「ぜんぶ?」
「ぜんぶ!」
ブッチは、でっかい声で、言った。
でも、その声は、ふるえていた。
「ヒロキ」
「…………うん」
「おれ、なんて言えばいいか、わかんない」
「…………うん」
「でも、ここに、いたかった」
ブッチは、ぐしゃっと、顔を、くずした。
「ヒロキが、ひとりで、泣いてるの、やだったから」
「…………」
オレは、立ち上がった。
そして、ブッチに、抱きついた。
ブッチは、でっかい体で、オレを、受け止めた。
「うわあああああ」
「ブッチ」
「ヒロキいいいい」
ふたりで、廊下で、大泣きした。
ユウタが、そっと、オレの背中に、手を、あてた。
ヤマグチさんが、ハンカチを、差し出した。
ハヤシさんが、口に、手を、あてたまま、ぼろぼろ、泣いていた。
カワシマが、でかい声で、泣きはじめた。
イノウエくんが、メガネを、はずして、ぬぐった。
サトウさんが、ウサギのスコップを、ぎゅっと、にぎった。
ゴウダが、天井を、見上げて、鼻を、すすっていた。
「…………ほこりだ」
「ゴウダ、ここ、病院だぞ」
「うるせえ。ほこりだ」
「ほこりだね」
誰かが、泣きながら、くすっと、笑った。
それが、うつって、みんな、笑って、泣いていた。
廊下の、むこうの、窓の外で、観覧車が、ゆっくり、まわっていた。
それから、季節が、ひとつ、めぐった。
九月になって、新学期が、はじまった。
母さんが、いない家は、静かだった。
でも、朝になると、台所から、卵を、割る音が、した。
父さんが、不器用な手で、卵焼きを、焼いていた。
焦げていた。
「うまい」
「父さん、それしか、言わないな」
「うまいものは、うまいんだ」
ミキは、毎朝、母さんの、写真の前に、卵焼きを、ひと切れ、置いた。
オレは、父さんの隣で、二個目の、卵焼きを、焼いた。
砂糖は、大さじ、ふたつ。
しょうゆは、たらーっ。
焦げた。
ぜんぜん、へいき、だった。
学校では、ブッチが、毎日、ハヤシさんに、プリンを、半分こしてもらっていた。
ユウタは、音楽の時間に、堂々と、歌った。
ヤマグチさんは、「今日のいいところ」を、毎日、一番に、言ってくれた。
ゴウダは、ときどき、校門で、オレに、手を、振った。
オレは、逆上がりの練習を、毎日、ユウタと、続けた。
夕日の、校庭で。
軍手を、ふたつ並べて。
「せーのっ!」
ぷらん。
ぷらん。
「…………まだ、あがらないね」
「うん。気長に、いこう」
十月の、ある日。
ユウタの、足が、ふわっと、あがった。
「あ」
「あ!」
くるっ。
ユウタが、鉄棒の上で、一回転した。
「…………できた」
「できたあああ!」
「ヒロキ、見た!? ぼく、できた!」
「見た! 見た!」
オレは、飛びはねた。
ユウタは、鉄棒の上に、ぺたんと、座って、泣き笑いしていた。
「ヒロキの、おかげ」
「ちがう。ユウタが、がんばった」
「ううん、ヒロキと、いっしょだったから」
ユウタは、鉄棒から、ぴょんと、おりて、オレの、手を、ぎゅっと、にぎった。
「つぎは、ヒロキの、番」
「…………うん」
「せーの、で、いっしょに」
「うん」
並んで、バーを、にぎった。
軍手が、ふたつ。
手が、ふたつ。
「せーのっ!」
ふたりで、地面を、蹴った。
オレは、思いきり、足を、振りあげた。
ぐるっ。
世界が、ひっくり返った。
空が、足の下に、あった。
夕焼けが、逆さまに、広がっていた。
校舎も、校庭も、ユウタの顔も、ぜんぶ、さかさまだった。
一瞬だけ。
そして、体が、ぐるんと、まわって、バーの、上に、のった。
「…………」
「…………」
「…………できた」
「できたよ、ヒロキ!!」
オレは、鉄棒の、上で、空を、見上げた。
オレンジ色の空に、うすい月が、のぼっていた。
27年かけて、やっと、回れた。
目から、ぼろっと、涙が、こぼれた。
「ヒロキ、また、ほこり?」
「…………うん」
「だいじょうぶ?」
「うん。いつものやつ」
ユウタが、横に、座った。
ふたりで、鉄棒の上に、ならんで、夕焼けを、見た。
「ヒロキ」
「うん」
「なんだか、ここに、お母さんが、いる気が、する」
「…………うん」
「ヒロキの、うしろに」
「…………うん。いるよ」
オレは、そっと、うしろを、ふりむいた。
もちろん、誰も、いなかった。
でも、夕日の光が、背中を、あたためていた。
石けんと、日なたの、においが、ほんのり、した気が、した。
その夜、家に帰って、机の引き出しを、開けた。
スマホは、まだ、真っ黒だった。
財布も、ランドセルの底に、ちゃんと、あった。
名刺入れを、取り出す。
白紙のはずの、名刺入れ。
でも、ふと、一枚だけ、文字が、うっすら、浮かんでいた。
『佐久間宏樹』
その下に、新しい、一行。
『いま、小学5年生。逆上がり、できました。』
「…………」
オレは、ふきだした。
笑いながら、涙が、出た。
名刺の、裏には、手書きで、ひとこと。
『これからも、ふつうの日を、たくさん、大事に。 母より』
「…………母さん」
名刺を、そっと、胸に、あてた。
窓の外で、虫の声が、りーん、と、鳴いていた。
秋の、夜だった。
下の階から、声が、聞こえた。
「ヒロキー! ごはんー!」
父さんの、声だった。
その後ろで、ミキの声。
「お兄ちゃん、きょうの、卵焼き、父さんが、こがしすぎ!」
「うまい!」
「それしか、言わない!」
笑い声が、階段を、のぼってきた。
オレは、名刺を、財布に、しまった。
そして、ふすまを、開けた。
「はーい!」
返事の声は、いつもの、おじさんの声だった。
低くて、すこし、かすれていて。
でも、ちょっとだけ、あかるかった。
階段を、おりていく、足音が、とんとん、と、軽かった。
台所のテーブルには、焦げた卵焼きと、ぬか漬けと、味噌汁。
箪笥の上の写真立ての、白いワンピースの、母さんが、笑っていた。
オレは、席に、ついた。
「いただきます」
卵焼きを、ひとくち、食べた。
甘くて、焦げてて、ちょっと、しょっぱかった。
世界で、いちばん、おいしかった。




