第30話「あとで、は、言わない」
八月十四日。
卵焼きを、ふたつに分けた。
ひとつは、食卓の皿。
もうひとつは、母さんが、タッパーに入れて、旅行かばんにしまった。
「病院で、食べるの?」
「食べられるかは、わからないけどね」
「じゃあ、オレが食べる」
「ふふ。それなら、安心」
ミキは、父さんの膝に座って、むすっとしていた。
「おいしゃさんの、ところ、行きたくない」
「ミキ」
「だって、おかあさん、かえってこなくなる気がする」
しーん、と、した。
父さんが、ミキの頭を、そっと、なでた。
母さんは、ミキの前に、しゃがんだ。
「ミキ。母さんね、ミキに、もらったものが、いっぱいあるの」
「…………なに」
「パンケーキ。ねずみの、うんとこしょ。くしゃっとした雲」
「あれは、しっぱいだもん」
「失敗が、いちばんおいしかったわよ」
ミキは、ぐすっと、鼻をすすった。
「…………行く」
「ありがとう」
「でも、わたし、泣くよ」
「泣いていいのよ」
ミキは、ぎゅっと、母さんに抱きついた。
父さんは、窓の外を見て、鼻を、ずるっと、すすった。
「…………ほこりだ」
「あなた、それ、ヒロキの、でしょう」
「うつったんだ」
母さんが、くすっと、笑った。
病院は、バスで、二十分のところにあった。
白くて、四角くて、ちょっと、薬のにおいがした。
廊下の、ベンチ。
あの、スマホの写真の、ベンチだ。
オレは、足を止めかけた。
でも、母さんが、手を、きゅっとにぎってくれた。
「だいじょうぶ。まだ、ヒロキは、ひとりじゃないわ」
「…………うん」
病室は、四階の、窓際だった。
窓から、遠くに、ひまわりデパートの屋上の、観覧車が、ちいさく、見えた。
「あ、観覧車」
ミキが、指さした。
「ほんとだ」
「おかあさん、ここから、見えるの、知ってた?」
「ええ。だから、この部屋を、お願いしたの」
母さんは、ベッドに、腰かけて、にこっと、笑った。
「毎日、見られるでしょう」
午前中は、ただ、いっしょに、いた。
母さんは、ベッドに、横になって、オレたちは、まわりの椅子に、座った。
父さんは、新聞を、広げて、一行も、読んでいなかった。
ミキは、持ってきた、クッキー缶を、ベッドの上で、ひろげた。
「おかあさん、どんぐり、見て」
「きれいね」
「これは、お兄ちゃんに、あげたやつの、おんなじの」
「あら、ふたつ、あるの」
「うん。ひとつは、おかあさんの」
「ありがとう。大事に、するわね」
母さんは、どんぐりを、てのひらに、のせて、じっと、見つめた。
看護師さんが、入ってきた。
丸い顔の、おばさんだった。
「あら、にぎやかね。お熱、はかりますよ」
「はい」
「お子さんたち、えらいわね。ちゃんと、来て」
看護師さんは、体温計を、母さんに、わたした。
オレは、その、体温計を、じっと見た。
最初の朝を、思い出した。
「37度か。平熱じゃない。はい、元気!」
あのとき、母さんは、笑って、そう言った。
ピピッ。
「…………36度、8分」
「あら、平熱ね」
「はい、元気!」
母さんが、にやっと、笑った。
オレは、ふきだした。
「それ、オレが、最初の日に、言われたやつ」
「ふふ。使いたかったの」
看護師さんが、きょとんとした。
「あの、なにか?」
「いえ、うちの、決まり文句なんです」
「そうですか。いいご家庭ですね」
看護師さんは、にっこり、笑って、出ていった。
昼、母さんは、少し、眠った。
父さんとミキは、売店に、ジュースを、買いに行った。
病室に、オレと、母さんだけに、なった。
オレは、ベッドの、そばに、椅子を、寄せた。
母さんの、寝顔を、見た。
頬が、すこし、こけている。
まつげが、長い。
髪に、白いものが、ちらほら、まじっていた。
この顔を、27年前の、オレは、見なかった。
見ようとしなかった。
だから、いま、見ている。
ひとつ残らず、目に、焼きつけるつもりで。
母さんの、まぶたが、ぴくっと、動いた。
「…………ヒロキ」
「うん」
「いたのね」
「いるよ」
「どこにも、行ってない?」
「行ってない」
「ゲーム、してない?」
「してない」
母さんは、ふふっと、笑った。
「えらいわね」
オレは、母さんの、手を、にぎった。
冷たかった。
でも、にぎっていると、すこしずつ、あたたかくなった。
「母さん」
「なあに」
「聞きたいことが、ある」
「ええ。なんでも」
「母さんは、こわくない?」
母さんは、ちょっとだけ、考えた。
「こわいわよ」
「…………」
「ほんとうは、すごく、こわい」
母さんは、天井を、見つめた。
「でもね、ヒロキが、来てくれたから、すこしだけ、こわくなくなった」
「オレ、なにも、してない」
「そこに、いてくれた。それだけで、じゅうぶん」
「…………」
「ヒロキが、見ないふりを、しなかった。それが、母さんには、いちばんの、贈りもの」
母さんの手が、オレの手を、きゅっとにぎった。
「ねえ、ヒロキ」
「うん」
「いちばんの宝物、教えてあげましょうか」
「宝物?」
「母さんの、いちばんの、宝物」
オレは、息を、のんだ。
母さんは、ゆっくり、言った。
「ヒロキが、はじめて、『ただいま』って、言った日」
「…………え」
「保育園から、帰ってきて、玄関で、ちっちゃい声で、『ただいま』って。母さん、台所で、卵焼きを、焼いてたの」
「…………」
「『おかえり』って、言ったら、ヒロキ、にこっと、笑ってね」
母さんは、目を、閉じた。
「それが、世界で、いちばん、うれしかったの」
「…………」
「ふつうの、日だったのよ。特別なことは、なにも、なかった。でも、そういう日が、いちばん、宝物」
オレは、声が、でなかった。
ただ、母さんの手を、両手で、包んだ。
「だから、ヒロキ」
「うん」
「これから、ふつうの日を、たくさん、大事にしてね」
「…………うん」
「卵焼きを、焼いて。友達と、笑って。ミキと、けんかして、仲直りして」
「うん」
「それが、母さんの、願い」
「…………うん」
「約束、してくれる?」
「やくそく」
オレは、小指を、出した。
母さんは、すこし、驚いて、それから、笑って、小指を、からめた。
「ゆびきりげんまん」
「うそついたら」
「はりせんぼん、のーます」
「ゆびきった」
細い指が、はなれた。
母さんは、満足そうに、目を、閉じた。
夕方、窓の外が、オレンジ色に、染まっていった。
観覧車の、ゴンドラが、夕日に、きらきら、光っている。
父さんが、母さんの、右手を、にぎっていた。
ミキが、左手を、にぎっていた。
オレは、足もとの、あたりに、立っていた。
母さんは、ゆっくり、みんなの、顔を、順番に、見た。
「あなた」
「うん」
「ぬか床、お願いね」
「…………うん。毎日、かきまぜる」
「へたくそでも、いいから」
「…………うん」
父さんの目から、ぼろぼろ、涙が、落ちた。
「ミキ」
「…………うん」
「お手紙、読んでね。大きくなったら」
「うん。ながくても、がんばる」
「ふふ。みじかく、書いたつもりよ」
「…………ながかった」
「まだ読んでないでしょう」
「でも、ながいの、わかる」
母さんは、おかしそうに、笑った。
そして、オレに、顔を、向けた。
「ヒロキ」
「…………うん」
「こっちに、おいで」
オレは、ベッドの、そばに、近づいた。
母さんは、オレの、顔を、両手で、はさんだ。
あの、観覧車の、てっぺんの、ときと、同じように。
「ヒロキ。母さんの、息子に、生まれてきてくれて、ありがとう」
「…………」
「それだけ、言いたかったの」
オレは、ぐっと、唇を、かんだ。
ありがとう。
ごめんなさい。
どっちも、違う気がした。
もっと、短くて、もっと、まっすぐな、言葉。
ミキに、教わった、いちばん、短い、言葉。
「母さん」
「うん」
「だいすき」
母さんの、目から、涙が、あふれた。
でも、笑っていた。
世界で、いちばん、きれいな、笑顔だった。
「母さんも。だいすきよ、ヒロキ」
「うん」
「ずっと、うしろに、いるからね」
「うん」
「見えなくても」
「うん。知ってる」
母さんは、オレの、おでこに、そっと、くちびるを、あてた。
あたたかかった。
石けんと、日なたの、においがした。
その夜、母さんは、眠るように、息を、引き取った。
苦しまなかった。
最期まで、穏やかな顔だった。
病室は、静かだった。




