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第29話 後編

ラジオ体操の公園には、いつもの、メンバーが、集まっていた。


ブッチ。


ユウタ。


ヤマグチさん。


ハヤシさん。


サトウさん。


カワシマ。


イノウエくん。


その後ろに、なぜか、六年生の、ゴウダまで、いた。


「え、ゴウダ」


「…………うっせえ。たまたま、通りかかっただけだ」


「ラジオ体操、六年生もやるんだ」


「やらねえよ! やるけど!」


どっちだ。


「ヒロキ、おはよ!」


ブッチが、全力で、手を、ぶんぶん、振った。


いつもと、同じ、ブッチだった。


でも、今日は、ほんの、少しだけ、早く来ていた。


ふだんは、ぎりぎりに、立ったまま、寝ながら、やってくるのに。


ユウタも、ヤマグチさんも、いつもより、早い。


「…………みんな、早いね」


「たまたま」


「そう、たまたま」


「議長として、時間は、守ります」


ぜんぜん、たまたまじゃ、ない。


みんな、なんとなく、わかってるんだ。


オレは、胸が、じーんと、した。


でも、そこで、泣いたら、体操が、できない。


「はーい、みなさん、並んでくださーい」


ピアノの前奏が、流れはじめた。


腕を、前から、上に、あげて、背伸びの、運動から、はいー。


体が、勝手に、動いた。


みんなが、いっしょに、動いた。


ブッチは、ぶるんぶるん。


ユウタは、すっきり。


ヤマグチさんは、きっちり。


ゴウダは、ぎこちない、ロボットみたいに。


「ゴウダ、手、まっすぐ」


「うるせえ」


最後の、深呼吸。


すう。


はあ。


朝の、空気が、肺いっぱいに、入った。


係の、おじさんが、スタンプを、押してくれた。


「さくまくん、今日も、元気だね。これで、毎日、押したよ」


「はい」


「皆勤賞だね」


「…………はい」


「よくがんばりました」


おじさんは、いちばん、大きな、スタンプを、ぽん、と、押してくれた。


赤い、まるい、ひまわりの、はんこ。


ふつうの、スタンプより、ずっと、大きい。


「これ、皆勤賞、特別のやつ」


「ありがとうございます」


カードを、見つめた。


丸い枠が、ぜんぶ、赤い、スタンプで、埋まっている。


前のオレは、三日目で、やめた。


いまは、ぜんぶ、埋まっている。


「…………ヒロキ」


ヤマグチさんが、ノートを、持って、立っていた。


「ちょっと、時間、いいですか」


「うん」


「議長として、提案があります」


「…………また、会議?」


「はい」


ヤマグチさんは、メガネを、くいっと、あげた。


「今日、この場で、臨時の『今日のいいところ』を、やりたいです」


「…………」


「さくまくんについて、です」


しーん、と、した。


みんなが、オレを、見ている。


「…………いいよ」


声が、ちょっと、かすれた。


ヤマグチさんは、うなずいた。


「では、はじめます。賛成の人」


全員の手が、ぴしっと、上がった。


ゴウダまで、上がっていた。


「ゴウダくんは、5年生では、ありません」


「うるせえ。上がっちまったんだ」


「…………では、特別に、許可します」


「許可すんのかよ!」


笑い声が、公園に、広がった。


「では、ブッチくんから」


「おれ!?」


ブッチが、飛びあがった。


「えーと、えーと」


ブッチは、もじもじ、して、ズボンを、ぎゅっと、にぎった。


「ヒロキの、いいところは」


「うん」


「ひじきを、食べたところ!」


「…………それ、一番目なの?」


「だって、あれ、すごかったもん!」


「ブッチくん」


ヤマグチさんが、ため息。


「もう少し、深い、ところを」


「えー」


ブッチは、うーんと、うなった。


それから、ぼそっと、言った。


「…………ヒロキは、おれが、ばかなこと言っても、笑ってくれる」


「…………」


「だから、ヒロキと、いると、おれ、ばかでも、いいやって、思える」


公園が、しーんと、した。


ブッチの、丸い顔が、まっかになった。


「…………以上!」


「ブッチ」


「な、なんだよ」


「それ、いちばんの、いいところだ」


「え、ほんと?」


「ほんと。ありがとう」


「うえええ、いまの、なし、なし!」


「もう、記録されました」


ヤマグチさんが、ノートに、さらさら、書いた。


「次、ユウタくん」


ユウタは、すっと、一歩、前に、出た。


えくぼは、出ていなかった。


まっすぐ、オレを、見ていた。


「ヒロキは」


「うん」


「ぼくに、ごめんなさいって、言ってくれた」


「…………」


「それだけで、じゅうぶん、いいところ」


「…………ユウタ」


「でも、もうひとつ、ある」


ユウタは、ちょっと、笑った。


「ぼくの、歌が、うまいって、言ってくれた」


「…………うん」


「あれ、ほんとに、うれしかった」


ユウタは、胸に、手を、あてた。


「ぼく、これから、ずっと、歌う。ヒロキが、聞いてくれた、声で」


「…………うん」


「だから、ヒロキも、聞いてて」


「…………うん」


オレは、うなずくことしか、できなかった。


ユウタは、にこっと、笑って、えくぼを、ぽこっと、浮かべた。


「次は、ハヤシさん」


「はい」


ハヤシさんは、口に、手を、あてた。


「さくまくんは、ブッチくんの、応援団長」


「それ、いいところ?」


「うん。ブッチくんが、勇気を、出せたのは、さくまくんの、おかげ」


「…………」


「ありがとう」


ブッチが、うしろで、ぐすっと、鼻を、すすった。


「ヒロキー、ありがとうー」


「ブッチ、お前に、言うんじゃ、ない」


「だってー」


カワシマ。


「ヒロキは、おれを、山賊に、してくれた」


「してない。カワシマが、立候補したんだ」


「でも、『山賊、一番、かっこいい』って、言ってくれた」


「…………言ったな」


「あれ、おれ、ずっと、覚えてる」


カワシマは、でかい声で、言った。


「声、でかいけど!」


サトウさん。


「ムギを、助けてくれた」


「みんなで、だよ」


「でも、いちばん、最初に、気づいてくれたのは、ヒロキくん」


「…………」


「だから、ありがとう」


サトウさんは、ポケットの、ウサギ用スコップに、そっと、さわった。


イノウエくん。


「ぼく、さくまくんが、いない掃除より、いる掃除の、ほうが、好き」


メガネを、くいっと、あげた。


「それだけ」


「…………それだけ、で、じゅうぶんだよ」


ヤマグチさんが、最後に、前に、出た。


ノートを、ぱたん、と、閉じた。


「わたしは」


「うん」


「さくまくんに、ひどいことを、言われて、泣きました」


「…………ごめん」


「でも、そのあと、さくまくんは、追いかけて、きてくれました」


ヤマグチさんは、メガネの奥で、まっすぐ、オレを、見た。


「それで、わたしは、はじめて、『人は、まちがえても、やり直せる』と、知りました」


「…………」


「だから、さくまくんの、いいところは」


ヤマグチさんは、ちょっと、息を、すった。


「やり直す、ところ、です」


公園に、風が、ぬけた。


セミの声が、ふっと、遠くなった。


オレは、目の奥が、あつくなった。


「…………」


「…………」


「…………ヤマグチさん」


「はい」


「議長、泣いてる」


「泣いて、いません」


「ほこり?」


「ほこりです」


「ほこりだね」


みんなが、笑った。


ゴウダが、ぼそっと、言った。


「おれは、いいところ、言わねえぞ」


「ゴウダくんは、まだ、順番では、ありません」


「…………でも」


ゴウダは、そっぽを、向いたまま、言った。


「ありがとな。さくま」


「…………うん」


「それだけだ」


「それだけで、いいよ」


ゴウダは、ずっと、そっぽを、向いたままだった。


耳が、まっかだった。


「では、最後に、さくまくんの、番です」


ヤマグチさんが、言った。


「さくまくんの、『今日の、いいところ』を、聞かせてください」


「…………オレの?」


「はい」


みんなの、目が、オレに、集まった。


どう、言おう。


頭の中が、真っ白に、なった。


でも、真っ白の、なかに、ひとつだけ、残っていた。


ミキの、「みじかく!」。


オレは、息を、すった。


「みんなが」


「うん」


「みんなが、いてくれたことが、オレの、今日の、いいところ」


みじかく。


それだけ。


「…………それだけ?」


「それだけ」


「みじかい」


「みじかく、って、言われた」


みんなが、ぷっと、ふきだした。


オレは、続けた。


「ありがとう」


大きな声で。


ごにょごにょじゃなくて。


公園の、はしまで、届くくらい、でっかい声で。


「ありがとうございました!」


しーん、と、した。


ブッチが、一番に、声を、あげた。


「どういたしましてー!!」


「どういたしまして!」


「どういたしましてです」


「どういたしまして」


「…………どういたしまして」


最後の、小さい声は、ゴウダだった。


みんなの、声が、重なって、朝の、公園に、ひびいた。


オレは、その声を、胸の、いちばん、奥に、しまった。


別れぎわ、ブッチが、ぐいっと、近づいてきた。


「ヒロキ」


「うん」


「あした、また、遊べるよな」


「…………」


「遊べるよな?」


ブッチの、目は、まっすぐ、オレを、見ていた。


ごまかせない。


ごまかしたく、なかった。


「…………ブッチ」


「うん」


「オレ、たぶん、ずっとは、ここに、いられない」


「…………」


「でも、ブッチと、ハヤシさんが、結婚して」


「えっ」


「友人代表スピーチ、泣きながら、やる」


「えっ、えっ、えっ」


ブッチの、顔が、ぼっと、赤くなった。


「け、結婚って、おれ、まだ、告白、しか」


「プリン、半分こ、から、27年だ」


「27年!? なんで、そんなくわしいの!」


「夢の中で、見た」


「また夢かよ!」


ブッチは、頭を、かかえた。


でも、すぐに、にかっと、笑った。


「…………夢でも、いいや」


「うん」


「ヒロキが、見た夢なら、ほんとに、なるかも」


「…………」


「ヒロキ、神だから」


「神じゃない。ただの、友達だ」


「…………うん」


ブッチは、ごしごし、腕で、目を、こすった。


「ヒロキ」


「うん」


「ほんとに、ありがとう」


「こっちこそ」


「また、あしたー!」


「…………また、あした」


そう言って、手を、振った。


ブッチは、ぶんぶん、手を、振りながら、走っていった。


その背中が、ちいさくなっていくのを、見えなくなるまで、見送った。


ユウタが、横に、立っていた。


「ヒロキ」


「ユウタ」


「ぼくに、なにか、言いたいこと、ある?」


「…………ある」


「うん」


「ユウタが、歌うのを、オレは、ずっと、聞いてる」


「うん」


「どこにいても」


「うん」


ユウタは、えくぼを、ぽこっと、浮かべた。


「ぼく、がんばるよ」


「うん」


「マネージャー、さん」


「…………!」


「ふふ」


ユウタは、いたずらっぽく、笑った。


「…………知ってたのか」


「ううん。なんとなく。ヒロキの、顔が、そう言ってた」


「どんな顔だよ」


「ぼくの歌を、聞いてる、顔」


オレは、笑った。


ユウタも、笑った。


それ以上、言葉は、いらなかった。


昼ごはんのあと、父さんが、ビデオカメラを、持ってきた。


でっかい、肩にのせる、やつだ。


「みんなで、家族写真を、撮ろう」


「写真? ビデオじゃなくて?」


「いや、写真だ。三脚、立てるぞ」


父さんは、縁側に、三脚を、立てた。


ミキが、横で、ぴょんぴょん、跳ねた。


「わたし、まんなか!」


「ミキは、ちっちゃいから、前」


「やだ、まんなか!」


「じゃあ、ミキと、お兄ちゃんが、前。お母さんと、お父さんが、うしろ」


「おうち、ぜんぶ、うつる?」


「うつる、うつる」


父さんは、カメラの、ファインダーを、のぞいた。


「よし、セルフタイマー、十秒。ヒロキ、ミキ、母さん、並んで」


「はーい」


縁側に、四人分、場所を、あけた。


オレが、いちばん、左。


ミキが、そのとなり。


うしろに、母さん。


そして、父さんが、スイッチを、押して、ダッシュで、走ってくる。


「いち、にー、さん」


ぴっぴっぴっ。


父さんが、縁側に、たどり着く、直前。


「あ」


ぼてっ。


つまずいた。


シャッターが、切れた。


写っていたのは、たぶん、父さんの、足だけだ。


「お父さん、だいじょうぶ?」


「…………だ、だいじょうぶ」


「もう一回」


「よし」


父さんは、立ち上がって、もう一回、スイッチを、押した。


ダッシュ。


ぴっぴっぴっ。


間に合った。


でも、顔が、半分、切れていた。


「もう一回」


三回目。


父さんが、ぎりぎり、間に合って、ばっちり、写った。


でも、ミキが、変な顔を、していた。


「ミキ!」


「へへ、おもしろいでしょ」


「もう一回」


四回目。


ミキは、変な顔をしなかった。


でも、今度は、オレが、目を、つぶっていた。


「ヒロキ!」


「ごめん、まばたき」


「もう一回!」


五回目。


六回目。


七回目。


「…………お父さん、いつまで、やるの」


「ばっちり、撮れるまでだ」


「もう、いいよ。どれも、おもしろいし」


「ダメだ。ヒロキの、最後の写真に、なるかもしれないんだ」


父さんは、はっとして、口を、おさえた。


しーん、と、した。


母さんが、そっと、笑った。


「あなた」


「…………すまん」


「いいのよ。もう一回、撮りましょう」


「…………うん」


八回目。


父さんは、ダッシュで、走ってきた。


今度は、つまずかなかった。


ばっちり、間に合った。


オレたちは、みんなで、カメラを、見た。


シャッターが、切れる、その、ほんの、一瞬前。


母さんが、オレの、肩に、そっと、手を、置いた。


ぱしゃっ。


最後の、一枚が、撮れた。


「…………撮れた、かな」


「現像、してみないと、わからないわね」


「現像、あした、出してくる」


父さんが、言った。


「ヒロキ、一枚、持ってろよ」


「うん」


夕方、母さんが、居間に、オレを、呼んだ。


「ヒロキ、ちょっと、いい?」


「うん」


母さんは、ソファに、座っていた。


膝の上に、小さな、旅行かばんが、のっていた。


「…………それ」


「入院の、準備」


「あした、行くの?」


「ええ。あした、朝」


「…………」


「父さんと、ミキと、ヒロキも、いっしょに、来てくれる?」


オレは、母さんの、目を、見た。


母さんは、ちゃんと、見返してくれた。


「いくよ」


「ありがとう」


「ゲームは、しない」


「…………」


「あした、ずっと、母さんの、そばに、いる」


母さんの、目が、うるんだ。


そして、ふんわり、笑った。


「ありがとう、ヒロキ」


「うん」


「じゃあ、今夜は、いっしょに、お風呂、入る?」


「え」


「だめ?」


「…………はずかしい」


「そう。じゃあ、母さんが、上がるまで、廊下で、待ってて」


「え、なんで、そうなる」


「だって、ヒロキの、背中、洗って、あげたかったのよ」


「…………」


「だめなら、いいわ」


「…………いいよ」


「ほんと?」


「うん。ちょっとだけ」


「ありがとう」


母さんは、くすくす、笑った。


その夜、母さんと、ひさしぶりに、お風呂に、入った。


背中を、ごしごし、洗われた。


「ヒロキ、いい子に、育ったわね」


「…………母さんの、おかげだよ」


「ううん」


母さんは、泡のついた、手で、そっと、オレの肩を、なでた。


「ヒロキが、がんばったのよ。ほんとうに」


石けんの、泡が、ふわふわ、湯気に、まじった。


オレは、目を、閉じた。


背中に、母さんの、手の、あたたかさが、残った。


夜。


部屋に、ひとりに、なった。


財布を、ひらいた。


名刺入れを、取り出す。


ほとんど、白紙。


いや、ぜんぶ、白紙だった。


『佐久間宏樹』の、名刺だけが、なぜか、消えず、そのまま、残っている。


「母さんの、息子」


裏の、その、一行も。


財布の、ポケットを、のぞく。


完走メダル。


ふくやの、あたり券。


ムギの、お守り。


緑の、フェルトの、葉っぱ。


ミキの、「みじかく!」。


母さんの、雑巾の、切れ端。


がま口。


歯の、模型。


ビーズの、ブレスレット。


ぬか床の、ビン。


どんぐり。


観覧車の、半券。


コロッケの、紙袋。


便せん。


ぜんぶ、ひとつ、ひとつ、取り出して、机の上に、並べた。


窓から、月の、光が、さして、小さな、宝物たちを、白く、照らしていた。


「…………」


ひとつ、ひとつ、手に取って、じっと、見た。


ぜんぶ、オレが、返した、後悔の、あとに、残ったものだ。


ひとつ、ひとつが、ちゃんと、あったかかった。


最後に、スマホを、取り出した。


『バッテリー残量 4%』


『残り時間   本日中』


ギャラリーを、ひらく。


一番上の、新しい写真。


どこかの、病院の、廊下。


大人の、オレが、ひとり、ベンチに、座っている。


うつむいて、両手で、顔を、おおっている。


その、となりに、小さな、白い、ワンピースの、女の人が、そっと、座って、オレの、背中に、手を、おいていた。


メモは、なかった。


でも、写真の、すみに、日付が、うつっていた。


『2026.8.14』


今年の、八月十四日。


「…………」


オレは、ぎゅっと、スマホを、握った。


そうか。


これは、大人の、オレが、母さんの、命日に、病院の、あの廊下に、行った、写真なんだ。


毎年、行ってる。


毎年、泣いてる。


でも、となりに、母さんが、いる。


オレは、そっと、画面を、なでた。


「…………大丈夫だよ」


誰に、言ったのか、わからなかった。


大人の、オレに、かもしれない。


母さんに、かもしれない。


でも、口から、自然に、出た。


布団に、入った。


天井を、見つめた。


窓の外から、虫の声が、聞こえる。


りーん、りーん。


引き出しの、スマホが、ブブッと、震えた。


そっと、取り出す。


『23:59』


『残り時間   あと 1分』


数字は、秒を、刻み始めた。


59。


58。


57。


「…………」


オレは、画面を、じっと、見つめた。


こわかった。


便せんを、枕の下から、取り出して、胸に、抱いた。


「母さん」


小さな声で、言った。


「ありがとう」


返事は、なかった。


でも、廊下の、むこうで、床が、ぎしっと、鳴った。


母さんが、起きている。


ふすまの前で、立ち止まっている。


いるのが、わかった。


10。


9。


8。


「おやすみ、ヒロキ」


ふすまの、向こうから、母さんの、小さな、声が、聞こえた。


「おやすみ、母さん」


3。


2。


1。


画面が、ふっと、暗くなった。


バッテリーが、なくなった。


オレは、目を、ぎゅっと、つぶった。


目が、覚めたら、どこにいるんだろう。


くたびれた、スーツの、ソファの、上か。


それとも。


意識が、すうっと、遠のいていった。


「ヒロキー! ごはんー!」


声が、聞こえた。


階段の、下から。


聞き慣れた、母さんの、声。


「ヒロキー! おきてるー?」


目を、あけた。


天井が、近い。


布団が、ちっちゃい。


足が、すこし、はみ出して、いない。


ちょうど、いい。


ヒーローの、パジャマが、ちょうど、いい。


「…………」


窓の外から、セミの声が、聞こえた。


八月、十四日。


引き出しを、開けた。


スマホは、真っ黒だった。


どんなに、ボタンを、押しても、反応しない。


でも、その、真っ黒な、画面に、ほんの少しだけ、映った、オレの顔は、小5の、男の子だった。


オレは、ここに、いる。


まだ、ここに、いる。


「…………決めて、いいのよ、って、言ってた」


つぶやいた。


「だから、母さん、オレ、決めたよ」


ふすまを、開けた。


階段を、おりた。


台所に、母さんが、立っていた。


白い、カーディガンに、旅行かばん。


テーブルに、卵焼きが、一皿。


「おはよう、ヒロキ」


「おはよう、母さん」


「ごはん、食べてから、病院に、行きましょう」


「うん」


「ヒロキも、来てくれる?」


「いく」


オレは、母さんの、前に、立った。


そして、まっすぐ、目を、見て、言った。


「ゲームは、しない」


母さんは、ふんわり、笑った。


「うん」


「ずっと、そばに、いる」


「うん」


「だから、母さん」


声が、ふるえた。


でも、ちゃんと、言った。


「母さんの、卵焼き、オレの、卵焼き、いっしょに、食べよう」


「…………ええ」


母さんは、ぽろっと、涙を、こぼした。


そして、その涙を、ぬぐわずに、にっこり、笑った。


「世界で、いちばん、しあわせな、朝ね」


窓の外で、セミが、じりじり、鳴いていた。


八月十四日の、朝だった。

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