第28話「母さんの、ほんとうの話」
八月十二日。
目が覚めて、引き出しを開けた。
『バッテリー残量 5%』
『残り時間 1日』
「……うん」
今日は、閉めなかった。
画面を、しばらく見ていた。
数字は、ただの数字だった。
でも、今日一日を、ちゃんと使え、と言われている気がした。
鏡を見ると、無精ひげの、37歳のヒロキが、ちょっと緊張した顔で立っていた。
半ズボンは、今日も、パツパツだった。
ボタンを、ぎゅっと、留めた。
「ヒロキー! ごはんー!」
「はーい!」
朝ごはんのあと、父さんがミキを連れて、出かけていった。
「きょうは、父さんと、ミキで、プールだ」
「お兄ちゃんは?」
「お兄ちゃんは、お母さんと、お留守番」
「えー、ずるい」
「ミキ」
母さんが、ミキの目線まで、しゃがんだ。
「あとで、ぜんぶ、聞かせてね。プールの話」
「…………うん」
ミキは、ちょっと、唇を、とがらせた。
でも、玄関を出る前に、ふりむいて、小さく、言った。
「お兄ちゃん、おかあさんのこと、よろしくね」
「…………まかせろ」
ミキは、にっと、笑って、父さんの手を、にぎった。
戸が、閉まった。
家の中が、しーん、と、した。
縁側に、ふたりで、座った。
母さんが、麦茶を、持ってきてくれた。
氷が、からん、と、鳴った。
庭の、朝顔が、咲いている。
前のオレが、一度も、まともに、観察しなかった、朝顔だ。
「ヒロキ」
「うん」
「なにから、聞きたい?」
聞きたいことは、山ほどあった。
でも、口から、出てきたのは、いちばん、ちいさな、質問だった。
「…………母さんは、いま、ここに、いるの?」
母さんは、ちょっとだけ、考えた。
それから、ゆっくり、言った。
「いるわ。でも、ヒロキが、知ってる、『ふつうの』母さんとは、ちょっと、ちがうかもしれない」
「…………」
「ヒロキが、27年前の、夏に、置いてきた、気持ちがあるでしょう」
「…………うん」
「母さんにも、置いてきた、気持ちが、あったの。ヒロキに、ちゃんと、言えなかったこと」
母さんは、庭の、朝顔を、見た。
「あの夏、母さんは、病気のことを、ヒロキに、言えなかった。ヒロキが、見ないふりを、したのも、母さんが、見せなかったからよ」
「ちがうよ。オレが」
「ううん」
母さんは、首を、ふった。
「母さんも、逃げたの。『ヒロキは、まだ子どもだから』って、言い訳して」
「…………」
「だから、おたがいさま。どっちも、言えなかった。それが、ずっと、心に、のこってたの」
オレは、麦茶の、コップを、ぎゅっと、握った。
「母さん」
「なあに」
「オレ、母さんの、最期の日、どうしてたの」
聞いてしまった。
母さんは、すぐには、答えなかった。
蝉の声が、遠くで、ざわざわ、していた。
「…………八月、十四日」
「え」
「ヒロキは、その日、友達の家で、ゲームを、していたの」
「…………!」
「母さんが、病院で、ヒロキを、呼んでいた、その時間に」
胸が、ずしん、と、重くなった。
思い出した。
あの日。
電話が、鳴っていた。
ブッチの家の、居間で。
でも、ゲームが、いいところで。
「あとで、かけ直す」って、言って。
受話器を、置いた。
「…………」
「ヒロキ」
「…………オレ、あのとき」
声が、でなかった。
喉が、ぎゅっと、閉まって、息が、できなかった。
37年間、ずっと、胸の、いちばん奥に、しまっていた、ことだった。
ユウタのことより。
ふくやのことより。
ずっと、ずっと、重たいもの。
「ごめん……ごめんなさい……母さん……ごめんなさい……」
言葉が、涙と、いっしょに、あふれた。
ミキに、教わった、いちばん、短い言葉が、止まらなかった。
母さんは、オレを、抱きしめた。
あったかかった。
石けんの、においが、した。
「いいのよ」
「よくない」
「いいの。ヒロキ」
「よくない! オレ、母さんに、会いに、行かなかった!」
「ヒロキ」
母さんは、オレの、顔を、両手で、はさんだ。
ちゃんと、目を、合わせて、言った。
「母さんね、あの日、ヒロキが、ゲームしてるって、知ってたの」
「…………」
「看護師さんが、教えてくれた。『息子さん、ご友人の家に、いらっしゃるそうです』って」
「…………」
「それを聞いて、母さん、ほっとしたのよ」
「え」
「ああ、ヒロキは、友達と、遊べてる。笑ってる。それなら、いいなって」
母さんは、ふっと、笑った。
「ほんとうよ。母さん、ヒロキに、泣いてる顔で、お別れ、してほしく、なかったの」
「…………」
「でも、ね」
母さんの、目から、涙が、一粒、こぼれた。
「ほんとうは、ちょっとだけ、会いたかったわ。それは、ほんとう」
「…………」
「だから、母さん、願ったの。もう一度だけ、ヒロキと、ちゃんと、夏を、過ごしたいって」
オレは、母さんの、肩に、顔を、うずめた。
声を、出して、泣いた。
37歳の、男が、半ズボンのまま、母さんの腕の中で、わんわん泣いた。
母さんは、ずっと、背中を、さすっていた。
「ヒロキは、いい子よ」
「…………」
「ずっと、いい子だった」
「…………」
「だから、自分を、ゆるして、あげて」
どのくらい、泣いたのか、わからない。
気がつくと、麦茶の氷は、すっかり、とけていた。
オレは、鼻を、すすって、顔を、あげた。
「…………母さん」
「なあに」
「便せんの、続き、読んでも、いい?」
母さんは、目を、丸くして、それから、うなずいた。
「ええ。いまが、そのとき」
オレは、財布から、便せんを、取り出した。
ふるえる手で、ひらいた。
前に、読めたのは、ここまでだった。
『ヒロキへ。
いつか、この手紙を、読むときが、くると思います。
そのときは、きっと、もう、母さんは、そばに、いないかもしれません。
でも、この手紙は、母さんが、ちゃんと、そばに、いるうちに、読まないでください。
ヒロキが、母さんを、ちゃんと、見てから、読んでください。』
その下に、続きが、あった。
『ヒロキは、泣き虫で、こわがりで、ゲームが、大すきで、ひじきが、きらいで。
母さんは、そんなヒロキが、だいすきでした。
大人になったヒロキが、もし、うまく、いかなくて、ひとりぼっちに、なっていたら、思い出してください。
母さんの、卵焼きは、ちょっと、焦げています。
でも、それが、うちの、味です。
ヒロキの、人生も、ちょっと、焦げて、いいんです。
それが、ヒロキの、味に、なります。
母さんは、いつも、ヒロキの、うしろに、います。
見えなくても、ちゃんと、います。
ヒロキ、だいすき。
母より』
「…………」
オレは、便せんを、胸に、抱きしめた。
声は、でなかった。
ただ、涙だけが、ぽたぽた、便せんに、落ちた。
でも、便せんの、文字は、にじまなかった。
「ヒロキ」
「…………うん」
「書いたの、母さんが、入院する、前の日よ」
「…………」
「ヒロキに、ずっと、渡せなくて。でも、どうしても、渡したくて」
母さんは、便せんの、端を、そっと、なでた。
「だから、願ったの。ヒロキの、財布に、入ってますようにって」
「…………」
「そしたら、ほんとうに、入ってた」
母さんは、いたずらっぽく、笑った。
オレは、泣きながら、笑った。
ちょっと、焦げた人生。
それが、オレの、味。
「母さん」
「なあに」
「…………ありがとう」
「どういたしまして」
「卵焼き、毎日、食べたい」
「ふふ。ヒロキが、作ってくれるんでしょう?」
「うん。作る」
「母さんの味で?」
「母さんの味で」
母さんは、オレの、頭を、ぽんぽん、と、叩いた。
昼ごはんは、ふたりで、そうめんを、食べた。
ぬか漬けの、きゅうりを、ぽりぽり、かじりながら。
午後は、アルバムを、広げた。
ヒロキの、赤ちゃんの頃の、写真。
ミキが、生まれた、日の、写真。
父さんと、母さんの、観覧車の、写真。
居間の、箪笥の、上の、あの、白いワンピースの、写真も、手に取った。
若い、母さん。
長い髪を、ひとつに、まとめて、観覧車の、前で、笑っている。
「…………母さん、きれい」
「ありがとう」
「これ、校門の向こうに、立ってた人、だよね」
母さんは、ちょっと、照れた。
「バレちゃった?」
「…………うん」
「ヒロキが、さびしくなったら、見に行こうって、決めてたの」
「…………」
「ほんとは、あの姿、恥ずかしいのよ。十年以上も、前の、服だもの」
オレは、くすっと、笑った。
「似合ってたよ」
「あら、ほんと?」
「うん」
母さんは、ふふっと、笑った。
写真の中の、母さんと、いまの、母さんが、重なって、見えた。
夜。
財布を、ひらく。
名刺入れの、中身は、ほとんど、白紙に、なっていた。
ほんの、わずかな、文字だけが、残っている。
一枚だけ、まだ、はっきり、読める名刺が、あった。
『佐久間 宏樹』
肩書きは、なかった。
名前だけ。
裏を、返した。
手書きで、一行。
『母さんの、息子』
「…………」
オレは、その、名刺を、そっと、胸に、あてた。
スマホを、ひらく。
『バッテリー残量 5%』
『残り時間 1日』
ギャラリーを、ひらく。
一番上の、新しい写真。
縁側に、並んで、座っている、ふたり。
大人の、オレと、白い、ワンピースの、女の人。
顔は、はっきりと、見えた。
母さんだった。
若い、母さんでも、病気の、母さんでもない。
ちょうど、いまの、オレと、同じ、年くらいの、母さん。
ふたりで、麦茶を、飲んでいる。
どちらも、笑っている。
メモ。
『母さん、毎年、八月十三日の前後に、縁側に、来てくれる。おれは、ずっと、気づかない、ふりを、してた。今年は、ちゃんと、話せた』
「…………」
涙が、ぽたり、と、画面に、落ちた。
指で、そっと、ぬぐった。
写真の、母さんが、オレを、見て、笑っていた。
布団に、入る前に、母さんが、廊下から、顔を、のぞかせた。
「ヒロキ」
「うん」
「あした、朝いちばんに、ごはん、いっしょに、食べましょうね」
「うん」
「卵焼き、ヒロキが、作ってね」
「…………うん」
「楽しみにしてる」
「おやすみ、母さん」
「おやすみ、ヒロキ」
ふすまが、閉まった。
オレは、天井を、見つめた。
あした、八月十三日。
こわくなかった。
あんなに、こわかったのに。
便せんを、枕の下に、そっと、しまった。
窓の外で、虫が、りーん、と、鳴いていた。




