第26話「パンケーキと、ミキの宝物」
八月十日。
目が覚めて、引き出しを開けた。
『バッテリー残量 7%』
『残り時間 3日』
「……うん」
返事だけして、そっと閉めた。
もう、数字には、何も言わないことにした。
言ったところで、減るのは止まらない。
だったら、今日という日を、ちゃんと使うほうがいい。
鏡を見た。
無精ひげの、37歳のヒロキが、いた。
ちょっと寝ぐせがついていて、ちょっと眠そうで、ちょっとだけ、情けない顔をしている。
でも、悪くなかった。
「ヒロキー! おきてー! パンケーキ、はじまるよー!」
ミキの声が、階段の下から、飛んできた。
声が、でかい。
朝から、元気すぎる。
「はーい!」
台所は、すでに、戦場だった。
ボウルに、粉。
牛乳。
卵。
砂糖。
そして、ミキ。
エプロンが、床に、引きずりそうなくらい、でかい。
母さんの、エプロンを、ぐるぐる巻きにして、着ている。
頭には、三角巾。
手には、泡立て器。
「おそい! お兄ちゃん、おそい!」
「まだ、七時だぞ」
「パンケーキは、はやさが、だいじなの!」
「どこの、パンケーキ屋だ」
母さんは、椅子に、座っていた。
ひざに、ブランケット。
顔色は、きのうの、遊園地のあとだからか、ちょっとだけ、疲れて見えた。
でも、目は、ミキを、ずっと、追っていた。
「ミキシェフ、はりきってるわね」
「おかあさんは、すわってて! わたしが、ぜんぶ、やる!」
「はいはい」
「お兄ちゃんは、助手!」
「助手か」
「はい、粉、かきまぜて!」
「へいへい」
泡立て器を、渡された。
37歳の、ごつい手で、ぐるぐる、混ぜる。
粉が、ふわっと、舞い上がった。
「くしゅん!」
「お兄ちゃん、きたない!」
「不可抗力だ」
「ふかこうりょく、ってなに」
「くしゃみは、止められないってこと」
「ふーん。むずかしい」
ミキは、満足そうに、うなずいた。
焼く段になって、問題が、起きた。
「ミキ、フライパン、熱いから、オレが」
「やだ! わたしが、やる!」
「危ないから」
「やる!」
「ミキ」
母さんが、静かに、言った。
「ヒロキに、まかせましょう。そのかわり、ミキは、ひっくり返す係」
「ひっくり返す、係?」
「いちばん、むずかしくて、いちばん、かっこいい係よ」
「やる!」
即答だった。
母さんは、ミキの扱いが、うまい。
オレは、フライパンに、生地を、流した。
じゅわっ。
甘い、においが、ひろがる。
ぷつ、ぷつ、と、小さな泡が、表面に、浮かんでくる。
「いま! いま、ひっくり返す!」
「まだ。泡が、ぜんぶ、はじけてから」
「えー」
「待つのも、だいじだ」
「…………」
ミキは、うずうずしながら、待った。
フライ返しを、両手で、にぎりしめて。
「いまだ」
「えいっ!」
ひっくり返した。
ぺちゃっ。
半分、フライパンの、外に、はみ出した。
「…………」
「…………」
「…………わたし、へたくそ」
ミキの声が、ちいさくなった。
オレは、はみ出した、パンケーキを、そっと、フライ返しで、戻した。
形は、ぐにゃっと、ゆがんで、ハート……には、見えない。
どちらかというと、くしゃっとした、雲だ。
「ミキ」
「…………」
「これ、一番、おいしそうだぞ」
「うそ」
「うそじゃない。焦げ目が、ついてる」
「…………」
「焦げ目は、うちの味、なんだってさ」
母さんが、ふふっと、笑った。
ミキは、ぱっと、顔を、あげた。
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、これ、わたしの」
「ああ、ミキのだ」
ミキは、くしゃっとした、雲を、お皿に、のせた。
その顔は、とても、誇らしげだった。
三人で、パンケーキを、食べた。
はちみつを、たっぷり、かけて。
「おいしい!」
「うん、うまい」
「ミキの、ひっくり返し、上手だったわよ」
「でしょ!?」
さっきまで、へたくそと、言っていたのに。
ミキは、胸を、ぐいっと、そらした。
母さんは、パンケーキを、ほんの、ひとくちだけ、食べた。
それでも、「おいしい」と、何度も、言った。
「ミキ」
「なあに、おかあさん」
「ミキが、焼いてくれたから、特別おいしい」
「えへへ」
ミキは、うれしそうに、足を、ぶらぶら、させた。
オレは、その光景を、じっと、見ていた。
目に、焼きつけた。
ミキの、前歯の、すきま。
はちみつの、ついた、口もと。
母さんの、やさしい、目。
この朝を、ずっと、覚えておこう。
午後、ミキが、オレの部屋に、やってきた。
手に、小さな、クッキーの缶を、持っている。
青くて、丸い、デンマークの、あの缶。
母さんの、裁縫缶と、そっくり。
「お兄ちゃん、これ」
「なに、それ」
「わたしの、たからもの」
ミキは、缶を、ぎゅっと、胸に、抱えた。
「お兄ちゃんに、見せてあげる」
「いいのか」
「うん。とくべつ」
ミキは、そっと、ふたを、あけた。
中には、いろんなものが、入っていた。
どんぐり。
ビー玉。
折りたたんだ、折り紙。
きれいな、色の、貝がら。
そして、一番上に、おおきな、封筒。
「これ、なに」
「おてがみ」
「だれの」
「おかあさんの」
「…………」
「おかあさんが、ミキに、くれたの。『ミキが、大きくなったら、読んでね』って」
オレは、息を、のんだ。
「いつ?」
「このあいだ。お兄ちゃんが、ひじき、食べた、日の、よる」
「…………」
「でもね、まだ、読めないの。字が、むずかしいから」
ミキは、封筒を、そっと、なでた。
「お兄ちゃん、読める?」
「…………」
「いま、読んで」
「いや」
オレは、首を、振った。
「それは、ミキが、大きくなってから、読むものだ」
「えー」
「いいか、ミキ」
オレは、しゃがんで、ミキの肩に、手を置いた。
「ミキは、これから、いっぱい、大きくなる。字も、むずかしいのも、読めるようになる」
「うん」
「そうしたら、ひとりで、読むんだ。ゆっくり」
「…………」
「そのとき、お兄ちゃんが、そばに、いるかは、わからないけど」
ミキの、目が、ゆれた。
「お兄ちゃん、どこか、行っちゃうの?」
「…………」
聞かれた。
ついに、聞かれた。
「…………」
どう、答えれば、いい。
嘘は、つきたくない。
でも、ほんとうのことを、言うのは、こわい。
オレは、ミキの、目を、まっすぐ、見た。
「ミキ」
「うん」
「お兄ちゃんは、ミキの、お兄ちゃんだ」
「うん」
「どこに、いても、ずっと」
「…………」
「でも、ちょっと、遠くに、行く日が、くるかもしれない」
ミキの、唇が、ふるえた。
「やだ」
「うん」
「やだ、お兄ちゃん、行かないで」
ミキは、オレに、しがみついた。
ちいさな、体が、ぷるぷる、ふるえた。
「やだ。やだ。やだ」
「ミキ」
「おかあさんも、お兄ちゃんも、行っちゃうの、やだ」
「…………!」
胸が、ずきんと、した。
おかあさんも。
ミキも、わかってた。
ちゃんと、見てた。
「…………ごめん」
「…………」
「ごめんな、ミキ」
オレは、ミキを、ぎゅっと、抱きしめた。
ミキは、声を、あげて、泣いた。
今まで、ずっと、がまんしていた、ものが、ぜんぶ、あふれていた。
オレは、泣かなかった。
泣いたら、ミキが、もっと、不安に、なる。
だから、ぐっと、こらえた。
ミキの背中を、ずっと、さすった。
「ミキ。ひとつ、約束しよう」
「…………なに」
「お兄ちゃんは、ミキに、ちゃんと、お手紙を、書く」
「おてがみ?」
「うん。ミキが、大きくなったとき、読めるように」
「ほんと?」
「ほんと」
「…………やくそく?」
「やくそく」
ミキは、ぐしゃぐしゃの、顔で、小指を、出した。
オレも、小指を、出した。
小さな、小指と、小さな、小指。
「ゆびきりげんまん」
「うそついたら」
「はりせんぼん、のーます」
「ゆびきった」
小指が、はなれた。
ミキは、ぐいっと、袖で、目を、ぬぐった。
そして、にっと、笑った。
「お兄ちゃんの、てがみ、たのしみ」
「ああ」
「ながいのは、だめだよ」
「わかってる。みじかく、だろ」
「うん!」
ふたりで、笑った。




