第25話 後編
白い、ワンピース。
「居間の、箪笥の、上の、写真。ヒロキ、見たことあるでしょう」
「…………うん」
「あれはね、プロポーズの日の、写真なの」
「…………」
「お父さんが、観覧車の下で、撮ってくれたのよ」
そうか。
あの、写真は、ここで、撮られたんだ。
オレは、ぎゅっと、ソフトクリームの、コーンを、にぎった。
聞きたいことが、のどまで、出かかった。
白いワンピースの、あの人は、誰。
校門の向こうに、立っていた、人は。
でも、聞けなかった。
聞いたら、ぜんぶが、終わる気が、した。
母さんは、そんなオレを、静かに、見ていた。
「ヒロキ」
「うん」
「ぜんぶ、聞いて、いいのよ」
「…………」
「聞きたくなったら、聞いて」
「…………いまは、まだ、いい」
「そう」
母さんは、うなずいた。
「じゃあ、観覧車、乗りましょう」
観覧車の、のりばには、おじさんが、ひとり、立っていた。
麦わら帽子に、日に焼けた顔。
胸に、「ひまわりランド 係員」の、名札。
「はい、いらっしゃい。ふたりね」
「お願いします」
「おや」
おじさんは、母さんの顔を、じっと、見た。
「…………どこかで、お会いしましたか」
「いえ。ずっと、前に、一度だけ」
「…………ああ!」
おじさんの、目が、ぱっと、ひらいた。
「思い出した! あの、ゴンドラの、中で、いきなり、叫んでた、若いお兄さんの、奥さんだ!」
「えっ」
「いやあ、あの日、下まで、聞こえましたよ。『結婚してください』って」
母さんの、顔が、まっかになった。
「やだ、聞こえてたの!?」
「そりゃもう。ゴンドラ、ガタガタ、ゆれてましたから」
「ぜんぜん、聞いてない」
オレは、腹を、かかえて、笑った。
父さん。
三分の一で、叫んだだけじゃなくて、ゴンドラを、ゆらしてたのか。
「この、坊やは?」
「息子です」
「ほう。じゃあ、あの、お兄さんの、息子さんか。こりゃ、いい」
おじさんは、にやっと、笑って、扉を、あけた。
「どうぞ。ゆっくり、楽しんで」
「ありがとうございます」
ゴンドラに、乗りこんだ。
向かい合わせに、座る。
扉が、がちゃん、と、しまった。
ゴンドラは、ゆっくり、ゆっくり、上がっていった。
窓の外に、町が、広がっていく。
駅。
商店街。
小学校の、校舎。
その、むこうに、うちのある、住宅地。
遠くに、海の、きらきらが、ちょっと、見える。
「ちっちゃいでしょ」
「うん。ぜんぶ、ちっちゃい」
「ヒロキが、毎日、歩いてる道も、あそこ」
母さんは、窓の、むこうを、ゆびさした。
「あそこが、学校。あそこが、ふくや。あそこが、ブッチくんちの、団地」
「…………ほんとだ」
「みんな、ちっちゃく、見えるけど、ちゃんと、そこに、あるのよ」
母さんは、窓に、おでこを、くっつけた。
「ヒロキ」
「うん」
「母さんね、ずっと、思ってたの」
「…………」
「ヒロキが、大きくなったら、ここに、いっしょに、乗りたいなって」
「…………」
「大きくなった、ヒロキと、ここから、町を、見たいなって」
ゴンドラが、てっぺんに、近づく。
空が、ぐんぐん、広がる。
「でも、ね。母さん、それが、できなくなったの」
「…………」
「だから、母さん、願ったの」
ぞくっと、した。
「ヒロキに、もう一度、会いたいって」
「…………母さん?」
「ヒロキが、ここに、来てくれたのは、きっと、母さんの、せいなの」
オレは、声が、出なかった。
母さんの、目は、きらきらしていた。
涙が、浮かんでいた。
「でもね」
母さんは、袖で、ぐいっと、目を、ぬぐった。
「それだけじゃ、ないのよ。ヒロキも、母さんに、会いたいって、思ってくれたから」
「…………」
「だから、ヒロキは、ここに、いるの」
ゴンドラが、てっぺんに、着いた。
ゆれが、ぴたっと、止まった。
あたりが、しーんと、した。
「…………母さん」
「うん」
「母さんは、いま、ここに、いるよね」
「いるわよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
母さんは、そっと、手を、のばした。
オレの、ほっぺに、さわった。
あったかかった。
ちゃんと、あったかかった。
「ほら。あったかいでしょう」
「…………うん」
「いま、ここに、いる」
涙が、ぼろぼろ、こぼれた。
今回は、ほこりも、プールの水も、言い訳に、ならなかった。
オレは、ただ、泣いた。
母さんは、なにも、言わずに、オレを、抱きしめた。
ゴンドラが、てっぺんで、きしっ、と、鳴った。
「ヒロキ。ありがとう」
「…………」
「母さんの、ところに、来てくれて」
オレは、母さんの、ブラウスに、顔を、うずめた。
石けんの、においが、した。
洗濯したての、においと、ちょっとだけ、日なたの、においが、まじっていた。
ずっと、忘れていた、においだった。
ゴンドラが、地上に、おりた。
扉が、あいた。
麦わら帽子の、おじさんが、にっこり、笑った。
「どうでした?」
「すごく、よかったです」
母さんが、にっこり、笑った。
「いやあ、よかった。また、おいでください」
「はい」
オレは、母さんの、手を、ぎゅっと、にぎった。
「また、来ようね、母さん」
「…………」
母さんは、すぐには、答えなかった。
それから、にこっと、笑った。
「そうね」
その「そうね」が、やさしくて、少し、さびしくて、胸が、きゅっと、なった。
帰り道、バスの中で、母さんは、うとうと、していた。
オレの、肩に、ことん、と、頭を、もたせて。
窓の外は、夕焼けだった。
オレンジ色の、光が、母さんの、横顔を、そめている。
オレは、動かなかった。
母さんの頭が、肩の上で、ゆれるたびに、息を、ひそめた。
この、重さを、覚えておこう。
そう、思った。
夜。
財布を、ひらく。
ファイルケースを、取り出す。
もう、名刺の、数は、わからない。
いちばん下の、行を、探す。
『ひまわりランド 名誉園長 兼務』
「…………名誉園長」
笑った。
笑ったのに、鼻が、つーんと、した。
裏の、手書き。
『観覧車は、いまも、動いています。母さんと、乗った場所だから』
いまも、動いてる。
あの、小さな観覧車が。
スマホを、ひらく。
『バッテリー残量 8%』
『残り時間 4日』
ギャラリーを、ひらく。
一番上の、新しい写真。
夕焼けの、観覧車。
ゴンドラの中に、ふたりぶんの、影。
ひとりは、大きな、大人の、影。
もうひとりは、細くて、白い、ワンピースの、影。
窓の外の、夕日が、ふたりを、金色に、染めている。
写真の下の、メモ。
『今年も、乗りました。母さん、今年も、てっぺんで、泣いてた。……いや、泣いてたのは、おれか』
「…………」
もう、白いワンピースの人の、正体は、わかっていた。
でも、あえて、口には、出さなかった。
オレは、ただ、写真を、そっと、なでた。
財布の、ポケットに、新しい物が、増えていた。
小さな、紙の、切符。
『ひまわりランド 観覧車 一回券』
半券だ。
日付は、1999年8月9日。
今日の日付。
でも、その、裏には、母さんの字で、書いてある。
『ヒロキ、また、乗ろうね』
「…………」
ぎゅっと、握った。
財布の、いちばん奥の、ポケットが、目に、入った。
もう、こわくなかった。
ファスナーを、ひらいた。
便せんを、取り出す。
もう一度、あの、最初の、一行を、読んだ。
『ヒロキへ。
いつか、この手紙を、読むときが、くると思います。
そのときは、きっと、もう、母さんは、そばに、いないかもしれません。』
そして、その下の、にじんでいた部分に、目を、こらした。
ゆっくり、読めた。
『でも、この手紙は、母さんが、ちゃんと、そばに、いるうちに、読まないでください。
ヒロキが、母さんを、ちゃんと、見てから、読んでください。
そのときが、くるまで、財布の、奥で、待っています。』
「…………」
オレは、便せんを、胸に、あてた。
母さんの、字だ。
ずっと、前から、準備してた、手紙だ。
まだ、読んじゃ、いけない。
もう少し。
母さんを、ちゃんと、見てから。
便せんを、そっと、たたんで、ポケットに、戻した。
ファスナーを、閉めた。
窓の外で、虫が、りーん、と、鳴いた。
あと、四日。




