第24話「残り五日と、ひとつの笑い」
八月八日。
目が覚めて、まず、引き出しを開けた。
スマホの画面に、白い文字。
『バッテリー残量 9%』
『残り時間 5日』
「……減ってる」
一日で、一パーセント。
つまり、十パーセントは、十日ぶんじゃなくて、数字が合ってるのは、残り日数のほうだ。
電池は、カウントダウンの、おまけみたいなものらしい。
充電器を、つないでみた。
画面に、緑のいなずま。
でも、数字は、動かなかった。
9%のまま。
「……だめか」
ため息が、出た。
声は、完全に、小5の男の子のそれだった。
ため息まで、かわいい。
ちっとも、うれしくない。
「ヒロキー! ごはんー!」
「はーい!」
台所に行くと、今日は、ミキが、エプロンをして、立っていた。
「お兄ちゃん、おそい! わたし、もう、お皿、ならべたよ!」
「えらい」
「でしょ!」
母さんは、椅子に座って、にこにこ、見ていた。
顔色は、きのうより、ちょっとだけ、よかった。
オレは、少しだけ、ほっとした。
でも、その「ちょっとだけ」に、しがみつくのは、もうやめようと思った。
朝ごはんのあとに、父さんが、居間で、ごそごそ、していた。
「ヒロキ、ちょうどいい。手伝ってくれ」
「なに?」
「おじいちゃんの、ぬか床を、かきまぜるんだ」
ぬか床。
母さんの、実家から、もらった、らしい。
台所の、すみに、でっかい、プラスチックの、容器が、置いてあった。
「毎日、かきまぜないと、いけないんだけどな。母さん、最近、体が、つらくて」
「うん」
「父さんが、やってるんだけど、どうも、へたでな」
父さんは、困った顔で、ふたを、あけた。
むわっと、においが、した。
酸っぱくて、土みたいで、ちょっと、くさい。
「…………」
「どうだ、くさいだろ」
「くさい」
「だよな。でも、これが、うまいんだ」
父さんは、素手で、ぬかを、ぐいっと、つっこんだ。
ぐちゅ。
「うわ」
「ほら、ヒロキも、やってみろ」
「えー」
「手は、洗えば、おちる」
オレは、おそるおそる、手を、入れた。
ひんやり。
ぬるっと、している。
ぬかの中に、きゅうりと、なすが、ねむっていた。
「…………」
「どうだ」
「……へんな、感触」
「だろ。でも、これを、毎日、続けると、愛着が、わくんだ」
父さんは、手を、動かしながら、ぽつりと、言った。
「母さんが、はじめて、うちに、きたとき、ぬか床を、持ってきたんだ」
「え」
「結婚前な。『これ、実家の味なの』って、真顔で、ぬか床を、さしだされて」
「…………」
「父さん、ぬか漬けなんて、食べたことなくてな。でも、母さんが、真剣だから、食べた」
「どうだった?」
「うまかった」
父さんは、笑った。
「それで、結婚を、決めた」
「ぬか床で?」
「ぬか床で」
「ええええ」
笑ってしまった。
でも、笑いながら、気がついた。
父さんの、手が、ちょっと、ふるえていた。
「…………父さん」
「ん?」
「母さん、だいじょうぶだよね」
父さんは、ぬかを、かきまぜる手を、止めた。
しばらく、黙っていた。
それから、ゆっくり、言った。
「ヒロキ」
「うん」
「父さんは、ずっと、母さんの、そばに、いる」
「…………」
「だから、ヒロキも、ミキも、安心しなさい」
それは、答えじゃなかった。
でも、父さんの、いまの、精いっぱいだった。
オレは、ぬかの中で、父さんの、手に、そっと、触れた。
ぬるっとした、ぬかの中で、父さんの、手は、あったかかった。
「うん」
「よし。じゃあ、かきまぜるぞ」
「うん!」
ふたりで、ぬか床を、かきまぜた。
においは、くさいままだったけど、ちょっとだけ、あったかい、においに、変わった気がした。
昼、ブッチとユウタが、家に、遊びに来た。
「ヒロキー! あそぼー!」
玄関で、ブッチの、でっかい声が、ひびいた。
母さんが、廊下から、顔を出して、にこっと、笑った。
「あら、いらっしゃい。ブッチくん、ユウタくん」
「おばさん、こんにちは!」
「こんにちは」
「ふたりとも、麦茶、飲む?」
「飲みます!」
「いただきます」
母さんは、台所に、向かった。
その、うしろ姿を、ブッチが、じっと、見ていた。
「ヒロキ」
「ん?」
「おばさん、ちょっと、やせた?」
「…………」
ユウタも、小さく、うなずいた。
「ぼくも、そう思ってた」
「…………」
ふたりとも、気づいてた。
オレは、ふたりの、顔を、見た。
ブッチの、丸い顔は、いつもの、笑顔じゃなかった。
ユウタの、えくぼも、ひっこんでいた。
「…………ブッチ、ユウタ」
「うん」
「あのさ」
声が、ふるえた。
でも、ちゃんと、言わなきゃ、いけない。
「母さん、ちょっと、病気なんだ」
「…………」
「オレ、ずっと、言えなくて」
ふたりは、しばらく、黙っていた。
そして、ブッチが、ぼそっと、言った。
「ヒロキ」
「うん」
「なんか、おれたちに、できること、ある?」
「え」
「ヒロキが、言わないで、ひとりで、かかえてるの、やだ」
ユウタも、うなずいた。
「ぼくも」
「…………」
目の奥が、じわっと、熱くなった。
ここで、泣いたら、また、「ほこり」じゃ、すまなくなる。
オレは、ぐっと、こらえた。
「…………ありがとう。でも、いまは、まだ、わからない」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、わかったら、言って」
「うん」
「ぜったい、だよ」
「ぜったい」
ブッチは、オレの、肩を、ぐいっと、組んだ。
その腕が、あったかくて、重かった。
「ヒロキ。おれたち、団員だから」
「団員?」
「ヒロキ応援団! 団長は、ヒロキの、応援団長じゃなくて、おれ!」
「ブッチが、団長なの?」
「うん! ヒロキは、団長の、団長!」
「意味、わかんない」
「おれも、わかんない!」
ユウタが、ふふっと、笑った。
「ぼくは、団員、一号」
「ずるい」
「ふふ」
三人で、笑った。
オレは、思った。
この世界に、来て、よかった。
ひとつ、確かなことが、あった。
三人で、お昼ごはんを、食べた。
メニューは、そうめん。
母さんが、ゆでて、氷水に、さらして、ざるに、あげてくれた。
「さあ、どうぞ」
「いただきます!」
ブッチが、ずるずる、すすった。
「うまっ! おばさんの、そうめん、世界一!」
「ふふ、ありがとう」
「ブッチ、おかわり、三回目」
「だって、うまいんだもん!」
ユウタが、きゅうりを、つまんだ。
「おばさん、この、きゅうり」
「ぬか漬けよ。ヒロキと、お父さんが、かきまぜてくれたの」
「おいしい……」
「ふふ、よかった」
オレは、きゅうりを、ひとくち、食べた。
ぽりっ。
酸っぱくて、しょっぱくて、ちょっと、くさくて、でも、うまかった。
ぬか床の、においが、口の中に、ひろがった。
母さんが、はじめて、うちに、もってきた、味。
それを、オレが、いま、食べている。
「…………うまい」
「ヒロキ、また、泣きそうな、顔してる」
「してない」
「してる」
「ブッチ、そうめん、とるぞ」
「だめー!」
笑い声が、台所に、ひびいた。
母さんが、そのようすを、じっと、見ていた。
目を、細めて。
「…………にぎやかで、いいわね」
その声は、とても、やさしかった。




