第23話「お手伝いと、ぬか床と、ひとつの嘘」
八月七日。
目が覚めて、最初にやったのは、カレンダーを見ることだった。
十三日の赤丸は、ちゃんとそこにあった。
消えていない。
夢じゃない。
「……あと、六日」
声に出したら、ちょっと、かすれた。
おじさんの声だ。
鏡の中の顔も、無精ひげも、クマも、ここに来た日のままだった。
「ヒロキー! ごはんー!」
「はーい!」
返事の声は、低かった。
半ズボンは、あいかわらず、パツパツだ。
オレだけが、なにも、変わらない。
変わっていくのは、スマホの数字と、名刺の文字と、母さんのほうだ。
「…………時間、ないな」
台所に行くと、母さんが、流しの前に立っていた。
でも、いつもと、ちがう。
背中が、ちょっとだけ、丸い。
片手で、流しのふちを、つかんでいる。
「母さん?」
「あら、ヒロキ。おはよう」
母さんは、すぐに、振り向いて、笑った。
「ちょっと、立ちくらみ。夏バテかしらね」
「座って」
「だいじょうぶよ」
「いいから、座って」
オレは、母さんの肩を、ぐいっと、押して、椅子に、座らせた。
母さんは、目を、まるくして、それから、ふふっと、笑った。
「ヒロキに、押されちゃった」
「朝ごはん、オレが、やる」
「え?」
「オレ、手伝う」
「ヒロキが? 卵、割れるの?」
「割れるよ。たぶん」
「たぶん、って言った」
「たぶん」
母さんは、くすくす笑った。
でも、立ち上がろうとはしなかった。
それが、答えだった。
卵焼きを、焼いた。
母さんの、あの、砂糖多めの、焦げた卵焼き。
作り方は、母さんが、椅子に座ったまま、教えてくれた。
「卵は、三つ。お砂糖は、大さじ、ふたつ」
「多くない?」
「それが、うちの味なの」
「へえ」
「しょうゆは、ちょっとだけ。たらーって」
「たらーって、どのくらい」
「たらーっ、よ」
「わかんない」
「感覚よ、感覚」
母さんは、困ったように、笑った。
オレは、フライパンに、卵液を、流した。
じゅわーっ。
いい音。
「巻くときは、ゆっくり。焦らないで」
「うん」
「ああ、ほら、そこ。もう、焦げてる」
「えっ」
「焦げてるわ。でも、いいの。焦げたほうが、おいしいから」
「焦がしたの、わざとじゃなかったの?」
「最初は、失敗よ。でも、お父さんが、おいしいって、言ってくれて。それから、わざと、焦がしてるの」
「…………」
オレは、フライパンを、見つめた。
ちょっと、焦げた、卵焼き。
あの、ずっと、食べたかった、味。
それは、父さんの、一言から、始まった味だったんだ。
「できた」
お皿に、のせた。
形は、ぼろぼろ。
でも、焦げ目は、ちゃんと、ついている。
母さんが、箸で、ひとくち、食べた。
「…………」
「どう?」
「…………」
「まずい?」
「ううん」
母さんは、箸を、置いて、目を、閉じた。
「おいしい」
「ほんと?」
「ほんとよ。母さんの味」
「…………」
「ヒロキが、作ったのに、母さんの味。ふしぎね」
母さんは、目を、開けて、にっこり、笑った。
その目が、うるんでいた。
「ヒロキ」
「うん」
「ありがとう」
「うん」
「これで、母さん、ひとつ、安心した」
安心。
その言葉が、胸に、刺さった。
でも、オレは、聞こえないふりを、しなかった。
「…………母さん」
「なあに」
「その卵焼き、毎朝、オレが、作るよ」
「毎朝?」
「うん。ずっと」
「…………」
母さんは、ちょっとだけ、黙った。
それから、やさしく、首を、振った。
「ずっとは、いいのよ。ヒロキには、ヒロキの、やることが、あるでしょう」
「でも」
「ね?」
その「ね?」が、やさしすぎて、反論できなかった。
昼すぎ、母さんが、昼寝を、している間に、ミキが、そっと、オレの部屋に、来た。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「おかあさん、最近、よく、寝るよね」
「…………」
「ごはんも、ちょっとしか、食べない」
「…………」
「ねえ、おかあさん、びょうきなの?」
オレは、ミキの顔を、見た。
小2の、丸い目。
前歯の、抜けた、すきま。
しっかり者の、ミキ。
でも、その目は、今日は、ちょっとだけ、不安に、ゆれていた。
どうしよう。
なんて、答えれば、いい。
前のオレは、見ないふりを、した。
それが、いちばん、よくなかった。
でも、小2の子に、全部を、話すのは、ちがう気も、する。
オレは、ミキの前に、しゃがんだ。
「ミキ」
「うん」
「お母さんは、ちょっと、体が、弱ってるかもしれない」
「…………」
「だから、オレたちで、お母さんを、助けよう」
「たすける?」
「うん。お手伝い。お皿を、運んだり、洗濯物を、たたんだり」
「それなら、できる!」
ミキの顔が、ぱっと、明るくなった。
「わたし、お手伝い、とくいだよ!」
「知ってる」
「お兄ちゃんより、とくいだよ!」
「それも、知ってる」
「でも」
ミキは、ちょっと、うつむいた。
「おかあさん、なおる?」
「…………」
胸が、きゅっと、なった。
ここで、嘘を、つくのか。
「なおる」って、言うのか。
でも、前のオレは、知っている。
オレは、ミキの、頭に、手を、置いた。
「わからない」
「…………」
「でも、オレは、お母さんの、そばに、いる。ずっと、見てる。ミキも、いっしょに、見ててくれる?」
「…………うん」
「ありがとう」
ミキは、ぎゅっと、オレに、抱きついた。
ちっちゃい、体が、ぷるぷる、ふるえていた。
「お兄ちゃん」
「うん」
「ごめんなさいって、いっぱい、いわなきゃ、いけないこと、ある?」
「え」
「だって、お兄ちゃん、最近、ずっと、ごめんなさいの、人みたい」
「…………」
「でも、わたしも、ある」
ミキは、顔を、うずめたまま、言った。
「わたし、おかあさんに、『きらい』って、いっちゃったことが、ある」
「いつ?」
「このあいだ。おやつ、ちょっとしか、もらえなかったとき」
「…………」
「あれ、ごめんなさい、いいたい」
オレは、ミキの背中を、ぽんぽん、叩いた。
「いいよ。言えば」
「でも、おかあさん、おこってない?」
「おこってない」
「ほんと?」
「ほんと。お母さんは、そんなこと、気にしないよ」
「…………うん」
ミキは、顔を、あげた。
涙で、ぐしゃぐしゃだったけど、決意の、顔をしていた。
「いってくる」
「いまから?」
「いま!」
ミキは、とことこ、居間のほうへ、走っていった。
オレは、廊下に、そっと、立って、見守った。
ふすまの、すきまから、見えた。
昼寝から、起きたばかりの、母さんの、膝に、ミキが、ぽすん、と、座った。
「おかあさん。ごめんなさい」
「あら、どうしたの」
「このあいだ、きらいって、いった」
「…………ああ」
母さんは、ミキの、頭を、そっと、なでた。
「母さん、おぼえてないわ」
「うそ」
「ほんとよ。それより、ミキ、おやつの、プリン、食べる?」
「たべる!!」
ミキの顔が、ぱあっと、輝いた。
母さんは、ちゃんと、おぼえていた。
でも、おぼえていないふりを、してくれた。
そういう、うそも、あるんだな。
オレは、その、ひとつの、やさしい嘘を、胸に、しまった。




