第22話 後編
夕方、母さんと、ふたりで、市民プールへ、行った。
ミキは、友達の家に、遊びに、行っている。
「え、いまから? 母さん、水着、ないわよ」
「大丈夫。市民プール、貸し出し、あるって」
「あら、用意周到ねえ」
「うん」
用意周到、というか、日記を、見て、決めた。
母さんが、浮き輪で、ぷかぷか、してる、日を、つくりたかった。
更衣室から、母さんが、出てきた。
黒い、ワンピースの、水着。
ちょっと、照れた顔。
「やだ、はずかしい」
「似合ってるよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「ヒロキ、お世辞、うまくなったわね」
「お世辞じゃない」
浮き輪を、かりて、母さんに、渡した。
母さんは、おそるおそる、プールの、はしっこに、足を、入れた。
「つめたっ」
「ゆっくり、入って」
「ヒロキ、手、つないで」
「うん」
オレは、母さんの、手を、ぎゅっと、にぎった。
母さんの手は、冷たかった。
でも、プールの水より、あったかかった。
浮き輪に、ずぼっと、はまって。
母さんは、ぷかーっと、浮かんだ。
「あら。浮いた」
「浮くでしょ」
「浮いたわ、ヒロキ。母さん、浮いてる」
母さんは、子どもみたいに、笑った。
オレは、その横を、ゆっくり、泳いだ。
ぷかぷか、浮かぶ、母さん。
ばしゃばしゃ、泳ぐ、オレ。
夕日が、水面に、反射して、ぜんぶ、金色だった。
「ヒロキ」
「ん?」
「あんた、楽しい?」
「楽しいよ」
「母さんも」
母さんは、空を、見上げた。
「こんなふうに、ヒロキと、ぷかぷか、したかったの」
「…………」
「ずっと、思ってた」
「…………うん」
「ありがとうね」
オレは、水の中で、母さんの、手を、離さなかった。
離したら、母さんが、どこかへ、流れていってしまう気が、した。
「母さん」
「なあに」
「オレ、ちゃんと、見てるから」
「…………」
「今日は、ちゃんと、母さんの、顔、見てるから」
母さんは、少し、黙った。
それから、そっと、笑った。
「うん。見てて」
その声が、水面に、ぽとんと、落ちた。
目の奥が、つーんと、した。
ほこりじゃなくて、ほんとの、涙が、プールの水に、混ざった。
でも、ばれなかった。
だって、プールの水は、塩素で、目に、しみるから。
便利な、言い訳が、増えた。
その夜。
財布を、ひらく。
名刺入れは、もう、ガムテープで、補強されていた。
いちばん下の、行を、探した。
『公益財団法人 ラジオ体操普及協会 認定講師 兼務』
「…………認定講師」
声が、ひっくり返った。
そんな、協会、あるのか。
名刺の、裏には、手書きで、一行。
『皆勤賞は、毎年、三回、取っている』
「毎年、三回?」
どうやって、取ってるんだ。
でも、その、すぐ下に、もうひとつ。
『スイミング・クラブ「ぷかぷか」 顧問 兼務』
「ぷかぷか」
名前が、母さんの、日記に、出てくる、あれだ。
オレは、思わず、笑った。
笑ったのに、目が、熱くなった。
スマホを、ひらく。
ギャラリー。
一番上の、新しい写真。
市民プール。
夕焼けの、水面。
浮き輪に、ぷかぷか、浮かんでいる、人影がある。
でも、顔は、水しぶきで、かすんでいて、よく、見えない。
その、横を、オレが、泳いでいる。
大人の、オレだ。
少し、日に焼けた、笑顔。
写真の下の、メモ。
『今日も、浮き輪で、ぷかぷか。……ずっと、これが、したかった』
「…………」
ずっと、これが、したかった。
オレが、今日、母さんと、やった、そのことが。
未来の、オレの、写真になっている。
でも、誰が、浮き輪に、入っているのかは、わからない。
母さん、だろうか。
それとも。
もう一枚、スワイプ。
そこには、小さな、女の子が、浮き輪に、入って、笑っていた。
七歳くらい。
前歯が、一本、抜けている。
どこかで、見た、笑い方。
メモ。
『姪っ子、水泳デビュー。ミキに、「兄ちゃん、教えかた、母さんそっくり」って、言われた』
「…………母さん、そっくり」
声が、ふるえた。
ミキの、娘だ。
オレが、母さんに、教わった、教え方が、姪っ子に、受け継がれている。
浮き輪に、ぷかぷか、浮かんでいる、人影は、母さんじゃなかった。
でも、同じ、笑い方、だった。
財布の、ポケットを、のぞくと、小さな、ビーズの、ブレスレットが、入っていた。
安っぽい、ピンクの、ビーズ。
中に、細い、ゴムが、通してある。
裏の、タグに、ペンで、書いてある。
『プール、行ったとき、母さんが、つけてた』
「…………」
それは、母さんの、物だった。
でも、いまの、世界の、母さんは、そんなもの、つけてなかった。
つまり、未来の、オレが、持っている、母さんの、形見。
「…………形見」
その言葉が、口から、出た瞬間、胸が、ぎゅっと、締めつけられた。
形見。
ついに、言葉に、なってしまった。
ぎゅっと、ビーズを、握りしめた。
指の隙間から、ビーズが、小さく、きらっと、光った。
部屋に、もどると、机の上の、カレンダーが、目に、入った。
八月の、カレンダー。
誰かが、赤いペンで、ひとつの日付を、ぐるっと、囲っていた。
十三日。
母さんの、字じゃ、なかった。
ミキの、字でも、ない。
オレの、字だった。
でも、覚えが、ない。
未来の、オレが、書いた、のだろうか。
その、下に、小さく、書き足されている。
『ここで、まだ、まにあう』
「…………まにあう?」
何に。
誰に。
オレは、赤い丸を、じっと、見つめた。
その夜は、母さんの、足音が、廊下を、通っても、ふすまは、開かなかった。
オレは、布団の中で、ぎゅっと、目を、つぶった。
あと、七日。




