第22話「浮き輪の、母さん」
セミが、鳴いている。
朝の六時半なのに、もう、うるさい。
「ヒロキー! ラジオ体操、遅れるよー!」
「はーい!」
返事の声は、今日も、おじさんだった。
でも、いまは、それどころじゃない。
首から、カードを、ぶらさげた。
ラジオ体操の、スタンプカード。
丸い枠が、ずらーっと、並んでいる。
今日は、八月の、六日。
あと、七日で、八月十三日だ。
考えると、胃が、きゅっと、なる。
だから、考えないで、走った。
公園には、近所の子が、三十人くらい、集まっていた。
みんな、眠そうな顔で、カードを、握っている。
ブッチは、すでに、立ったまま、寝ていた。
「ブッチ、起きろ」
「……ねてない。めを、やすめてる」
「立ったまま、よくやるな」
「ヒロキ、きょうも、はやいね」
ユウタが、ふあ、とあくびをして、えくぼを、浮かべた。
「ぼく、昨日、夜ふかし、しちゃった」
「なにしてたの」
「歌の、練習」
「それは、ふかしていい夜ふかしだ」
スピーカーから、あの、ピアノの前奏が、流れはじめた。
「腕を、前から、上にあげて、背伸びの、運動から、はいー」
その瞬間。
オレの体が、勝手に、動いた。
背伸び。
腕の、振り。
足の、屈伸。
ぜんぶ、ぴたっと、決まる。
なんでだ。
前のオレは、こんなに、できなかったはずだ。
でも、気づいた。
会社で、毎朝、朝礼のあとに、やってた。
「はい、ラジオ体操第一ー」って、課長が、やるやつだ。
いやいやだったのに、体が、ぜんぶ、覚えている。
「ヒロキ、きれい……」
「手の先まで、のびてる」
「あの子、ラジオ体操の、先生みたい」
まわりの、お母さんたちが、ひそひそ、言っている。
見ないでほしい。
でも、気持ちは、ちょっと、よかった。
最後の、深呼吸を、して、終わった。
「はーい、スタンプ、おしまーす」
係の、おじさんが、ぽん、ぽん、と、カードに、押していく。
「さくまくん、これで、十日連続だね」
「はい」
「皆勤賞、狙えるよ」
「が、がんばります」
前のオレは、三日目で、寝坊して、やめた。
それが、この世界では、十日連続だ。
スタンプの、赤い、丸を、じっと、見た。
小さい、けど、ちゃんと、押してある。
朝ごはんのあとに、母さんが、言った。
「ヒロキ、きょうは、プールの、日でしょう」
「うん。学校の、プール開放」
「母さんも、ついていって、いい?」
「え」
箸が、止まった。
母さんが、プールに、来る。
日記に、書いてあった。
『お母さんは、泳げないのに、浮き輪で、ぷかぷかしていました。』
そうか。
あれは、八月三日の、話だった。
でも、この世界は、八月六日だ。
少し、ずれてる。
それとも、あの日記の、日付が、こっちに、合わせて、動いたのか。
どっちでも、いい。
いま、大事なのは、ひとつだけだった。
「うん。来て」
「ほんと?」
「うん。いっしょに、行きたい」
母さんは、目を、ぱちぱち、させて、それから、ふふっと、笑った。
「あら、うれしい」
その笑顔が、前より、ほんの少し、細く見えた。
頬のあたりが、うすい。
気のせいだと、思いたかった。
でも、今日は、ちゃんと、見ようと、決めた。
見ないふりを、しない。
オレは、母さんの顔を、まっすぐ、見た。
母さんは、ちょっと、照れて、目をそらした。
「やだ、そんなに、見ないでよ。しわ、あるんだから」
「ない」
「あるわよ」
「ないよ」
「口が、うまくなったわね」
「会社で、鍛えられたから」
「え?」
「なんでもない!」
ミキが、横から、じとっと見た。
「お兄ちゃん、きょう、へん」
「へんでいい」
「でも、おかあさんと、ごはん、食べるとき、いつもより、ゆっくり」
「ゆっくり、食べてるんだ」
「ふーん」
ミキは、なんでも、見てる。
学校の、プールは、青かった。
水面が、きらきら、光っている。
塩素の、においが、鼻に、ツンときた。
更衣室で、水着に、着替えて。
鏡を、見て。
オレは、五秒、固まった。
紺色の、スクール水着。
ぴったり、というか、ぎゅうぎゅう。
胸の、ところに、白い、布が、縫いつけてある。
『5-2 さくま』
もはや、水着というより、ボディペイント。
37歳の、おなかが、ちょっと、ぽこっと、出ている。
太ももは、ぱんぱん、だ。
「…………終わった」
人として、終わった。
「ヒロキ、はやく、行こう!」
ブッチが、水着姿で、ぽよんぽよん、走っていった。
あっちは、丸い体だから、似合ってる。
ずるい。
オレは、タオルを、肩に、かけて、できるだけ、ひっそり、プールサイドに、出た。
でも、だれも、オレのおなかなんて、見ていなかった。
みんな、水しぶきをあげて、プールに、飛びこんでいく。
「ヒロキー、はやくー!」
「いま行く! 心の準備が、いるんだ!」
「心の準備って、なにー?」
「……大人には、いるんだよ」
「へんなのー!」
みんな、どっと、笑った。
我ながら、むりやりだ。
プール開放は、自由に、泳いで、いい時間だった。
保護者も、見学席から、見ている。
母さんは、フェンスの外の、日陰の、ベンチに、座って、手を、振っていた。
白い、帽子を、かぶって。
「ヒロキー! がんばってー!」
「はずかしいから、やめてー!」
でも、顔は、にやけていた。
オレは、プールに、足を、入れた。
冷たい。
そして、思い出した。
前のオレは、泳げなかった。
二十五メートルが、どうしても、泳ぎきれなくて、いつも、ビート板に、しがみついていた。
水が、こわかった。
顔を、つけると、息が、できなくなる気が、して。
でも、いまは、どうだ。
オレは、37歳だ。
水が、こわい、ということは、さすがに、ない。
「いくぞ」
壁を、蹴った。
ばしゃっ。
腕を、まわす。
足を、バタバタ。
進む。
進む。
…………進んで、ない。
「…………あれ?」
顔を、あげた。
さっきの、壁から、三メートルも、進んでいない。
体が、重い。
37歳の、体は、水に、浮かないらしい。
しかも、腕が、まわらない。
肩が、ぎしぎし、いう。
「ヒロキ、もしかして、おぼれてる!?」
「ちがう! 泳いでる!」
「ぜんぜん、すすんでないよ!」
「これは、戦略的な、ゆっくりだ!」
「せんりゃくてき」
ブッチが、すいーっと、犬かきで、追い抜いていった。
あの、丸い体で。
なんで、あんなに、浮くんだ。
「…………ブッチ、うらやましい」
「ヒロキ、足、ついてるよ?」
「…………ほんとだ」
足が、ついていた。
プールの、浅い、ところだった。
ユウタが、横に、並んだ。
「ヒロキ、いっしょに、泳ごう」
「ユウタ、泳げるの?」
「うん。ぼく、水泳は、得意なんだ」
「なんでも、できるな、お前」
「ヒロキよりは、できないよ」
「いや、水泳は、ユウタの、勝ちだ」
ユウタは、にこにこ、して、手を、さしだした。
「じゃあ、教えて、あげる。まず、顔を、つけて」
「はい、先生」
「ボビング、っていうの。ぶくぶく、息を、はくの」
「ぶくぶく」
ユウタに、教わりながら、水に、顔を、つけた。
ぶくぶく。
ぶくぶくぶく。
目を、開けると、水の中は、きらきらしていた。
ユウタの、足が、見える。
ブッチの、足も。
みんなの、足が、ばらばらに、動いている。
息が、もたなくなって、顔を、あげた。
「ぷはっ!」
「できたー!」
ユウタが、拍手した。
「ヒロキ、ちゃんと、息、はけてる!」
「…………ほんとだ」
水が、こわくない。
こわくなかった。
当たり前、なんだけど。
でも、この、当たり前に、27年、たどりつけなかった。
結局、その日、オレは、十メートルしか、泳げなかった。
二十五メートルには、遠かった。
でも、それで、よかった。
オレは、プールサイドに、あがった。
ぜえぜえ、している。
そのとき、フェンスの、むこうから、声がした。
「ヒロキー!」
母さんだった。
いつの間にか、ベンチから、立って、フェンスの、そばに、来ていた。
「ヒロキ、かっこよかったわよー!」
「ほんと?」
「ほんと! 十メートル、泳いだじゃない!」
「ぜんぜん、すすんでなかったのに」
「それでも、かっこよかった!」
母さんは、両手で、大きく、手を、振った。
その声が、すこし、かすれていた。
きっと、暑さの、せいだ。
そう、思った。




