第21話 後編
引き出しの、奥から、小さな、ノートが、出てきた。
表紙に、でかい字で、『なつやすみ にっき』。
オレは、ページを、めくった。
7月28日。
『きょうは、お母さんと、かき氷を、たべました。お母さんが、いちごで、ぼくが、メロンでした。』
8月3日。
『きょうは、お母さんと、プールに、行きました。お母さんは、泳げないのに、浮き輪で、ぷかぷかしていました。』
8月10日。
『お母さんと、花火を、しました。線香花火が、さいごまで、おちなかったです。』
どれも、母さんの話ばかりだった。
そして、8月13日の、ページ。
そこで、日記は、ぷつりと、止まっていた。
白紙。
その次の、ページも、白紙。
最後まで、白紙。
「…………」
指が、ふるえた。
8月13日。
そうだ。
この日だ。
母さんが。
「ヒロキ」
うしろから、声がした。
ふりむくと、教室の入り口に、母さんが、立っていた。
エプロンじゃなくて、あの、白い、カーディガン。
夕日が、背中から、さして、輪郭が、ふわっと、光っている。
「母さん……なんで、学校に」
「迎えに、きたのよ」
「…………」
「ヒロキが、日記を、見つけたから」
母さんは、静かに、教室に、入ってきた。
床に、足音が、しない。
あれ。
足音、しない。
「母さん」
「なあに」
「この日記、8月13日で、止まってる」
「ええ」
「…………母さんは、あの日、どうしたの」
母さんは、ゆっくり、オレの前に、座った。
そして、そっと、日記の、白紙の、ページを、なでた。
「ヒロキ。母さんは、ね」
「うん」
「この日、お医者さんに、行ったの」
胸が、どくん、と、鳴った。
「そこで、言われたの。ちょっと、むずかしい病気で、これから、長く入院することになるって」
「…………」
「でも、まだ、子どもに、言えなかった。夏休みの、思い出を、こわしたく、なくて」
母さんは、困ったように、笑った。
「だから、日記が、止まったのは、ヒロキの、せいじゃ、ないのよ」
「…………」
「ヒロキは、その日から、母さんの、ことを、見ないふりを、したのね」
オレは、声が、出なかった。
そうだ。
前のオレは、日記を、書かなくなった。
母さんの顔を、見るのが、こわかった。
母さんが、痩せていく、のが、こわかった。
だから、ゲームに、逃げて、友達と、遊んで、母さんを、見ないようにした。
「…………ごめん」
「謝らないで」
「でも、オレ」
「ヒロキ。聞いて」
母さんの、手が、オレの、手を、そっと、包んだ。
冷たかった。
いつもの、あったかい手じゃ、なかった。
「あなたが、いま、ここに、来た理由、少しずつ、わかってきたでしょう」
「…………」
「あなたは、後悔を、返しに、来たの。でも、ほんとうに、返したかったのは、ここ」
母さんは、白紙の、ページを、指さした。
「あなたが、母さんを、見られなかった、夏よ」
教室の、窓の、外で、ヒグラシが、急に、鳴きやんだ。
世界が、しーんと、した。
オレは、日記を、ぎゅっと、胸に、抱いた。
「母さん」
「うん」
「オレ、まだ、書けないよ」
「いいのよ」
「でも、書かなきゃ、いけない」
「ええ。書くのは、あなたの、時間で、いいわ」
母さんは、そっと、笑った。
「でも、ヒロキ。もうすぐ、8月13日が、くる」
「…………」
「そのとき、あなたは、選ぶの」
母さんの輪郭が、夕日に、溶けるように、ぼやけた。
「母さんを、ちゃんと、見るか。それとも、また、見ないふりを、するか」
「…………母さん!」
声を出した瞬間、母さんは、いなかった。
教室は、ただ、夕日で、真っ赤だった。
床に、日記だけが、残っていた。
家に、帰って、財布を、ひらいた。
名刺入れの、タコ糸を、ほどく。
いちばん下の、行を、探す。
『学習塾「ありがとう塾」 塾長 兼務』
なんだよこれ。
でも、笑う気に、なれなかった。
名刺の、裏には、手書きで、一行。
『夏休みの、最後の日には、必ず、「日記」を書かせています』
「…………」
涙が、ぽとり、と、名刺に、落ちた。
スマホを、ひらいた。
ギャラリー。
一番上の、新しい写真。
塾の、教室。
子どもたちが、机に、向かって、一生懸命、日記を、書いている。
その、うしろで、オレが、にこにこ、見守っている。
黒板に、でっかく、書いてある。
『ありがとうを、だれかに、伝えよう』
写真の、下の、メモ。
『今日の日記の、お題。「お母さんに、言えなかったこと」。……おれも、書いた。まだ、渡せてない』
「…………」
指が、止まった。
おれも、書いた。
まだ、渡せてない。
財布の、いちばん奥の、ポケット。
便せん。
「あれは、母さんが、オレに、書いた、手紙だと、思ってた」
でも、もしかして。
オレは、ファスナーに、手を、かけた。
そのとき、廊下から、足音。
「ヒロキー、ごはんよー」
母さんの、声だった。
いつもの、あったかい、母さん。
オレは、ファスナーから、手を、はなした。
「…………はーい!」
返事をした、その声は、あいかわらず、おじさんの声だった。
胸の奥が、ぎゅっとなった。
重たいけれど、あたたかい、ぎゅっだった。
あと、どれだけ、残ってるんだろう。
8月13日まで。
そして、そのあとは。




