第21話「夏休みの宿題は、秋にやってくる」
朝、目が覚めて、最初にやったのは、鏡の確認だった。
「お兄ちゃん、朝から何やってるの」
ふすまの隙間から、ミキが、のぞいていた。
「顔の、確認」
「へんなの」
「へんでいい」
鏡を見た。
無精ひげも、目の下のクマも、ここに来た日のままだ。
半ズボンは、あいかわらず、パツパツだった。
「ヒロキー! ごはんー!」
「はーい!」
学校に着くと、教室の黒板に、大きく書いてあった。
『きょうは、「夏休みの思い出」発表会』
……え。
「夏休み」?
いま、十月の終わりだぞ。
「ヒロキ、どうしたの? ぼーっとして」
ブッチが、不思議そうな顔をした。
「ブッチ。いま、何月?」
「八月だよ。何言ってんの」
「え」
窓の外を見た。
さっきまで、散りかけの、枯れ葉だった、校庭の木が、青々と、茂っている。
セミが、うるさく、鳴いている。
「…………」
オレは、ごくっと、つばを飲んだ。
季節が、戻っている。
いや、戻ってるんじゃない。
この世界は、オレの、後悔のほうに、合わせて、動いてるんだ。
「ヒロキ、顔、まっさおだよ」
ユウタが、そっと、ハンカチを、貸してくれた。
「ありがとう。だいじょうぶ」
「ほんと?」
「うん。ちょっと、夏バテ」
「もう、八月なのに、夏バテ、おそいね」
ユウタは、くすくす笑った。
何も、疑ってない。
この世界の人たちは、いつも、そうだ。
思い出した。
前のオレの、夏休みの宿題は、いつも、地獄だった。
最終日の夜、ちゃぶ台に、ドリルを広げて、泣きながら、やった。
母さんが、麦茶を持ってきて、「だから、言ったでしょ」と、ため息をついた。
自由研究は、いつも、前日の、朝顔の観察だった。
しかも、咲いてもいない朝顔の、でたらめな絵。
担任の先生は、毎年、赤ペンで、書いた。
『もう少し、がんばりましょう』
その、「もう少し」が、いちばん、堪えた。
「はーい、じゃあ、宿題を、集めまーす」
タカハシ先生の、声。
みんなが、わらわらと、前に、出ていく。
オレは、ランドセルから、ファイルを、取り出した。
分厚い。
ずっしり、重い。
中には、ドリル、読書感想文、工作、そして、自由研究が、入っている。
ぜんぶ、7月中に、終わらせた。
37歳の、計画性で。
「さくま。すごいな、全部、終わってるのか」
先生が、ファイルを、受け取って、ぱらぱら、めくった。
「はい。7月中に」
「えらい。…………ん?」
先生の手が、止まった。
「この、読書感想文は」
「あ、はい」
「『資本論を読んで』……?」
「はい」
「小学5年生が?」
「あの、子ども向けの、解説本を、読みまして」
「それでも、だな」
先生は、ページを、めくった。
そこには、オレの字で、でかでかと、書いてある。
『商品の価値は、労働によって決まるという考え方に触れ、駄菓子屋ふくやのおばあちゃんが、毎日、きなこ棒を、並べていた時間の、重みを、あらためて』
「…………」
「…………」
先生が、顔を、あげた。
「さくま。これは、素晴らしい」
「え」
「素晴らしいが、小学生の、感想文では、ない」
「す、すみません」
「あと、自由研究」
先生は、さらに、めくった。
『題:大人の税務処理について 〜小学生にも、できる、確定申告入門〜』
「…………」
「…………」
「さくま」
「はい」
「だれに、頼まれたんだ」
「だれにも、頼まれてません」
「じゃあ、なんで、確定申告」
「……去年、苦労したので」
「去年?」
「あ、いや、夢の中で」
先生は、長い、ため息を、ついた。
そして、肩を、ぽんと、叩いた。
「さくま。先生は、お前のことを、信じてる。信じてるが」
「はい」
「次からは、ふつうの、朝顔にしなさい」
「…………はい」
クラスが、どっと、笑った。
ブッチが、うしろで、「ヒロキ、神だけど、ふつうの朝顔にしろって」と、腹を、かかえて、笑っていた。
オレも、笑った。
でも、笑いながら、どこか、ひっかかっていた。
こんなに、完璧に、終わらせたのに。
胸の奥が、ちっとも、軽くならない。
放課後。
教室に、残って、ひとり、ぼんやり、窓の外を、見ていた。
夏の夕方の、空だった。
オレンジ色の、雲。
遠くで、ヒグラシが、鳴いている。
そのとき、ふと、思い出した。
前のオレの、夏休みの、本当の、後悔は。
宿題じゃ、なかった。
「…………」
机の、中に、手を、入れた。




