第20話 後編
診察台から、起き上がって、隣の、カーテンを、そっと、のぞいた。
小さな、男の子が、診察台に、座って、ぼろぼろ、泣いていた。
お母さんは、手を、にぎっている。
先生は、困った顔で、ドリルを、持っていた。
「あのさ」
オレは、しゃがんで、その子と、目線を、合わせた。
「こわいよな」
「…………うん」
「オレも、こわかった。ずっと」
男の子が、ぐすっと、鼻をすすった。
「でも、ひとつだけ、いいこと、教えてあげる」
「…………なに?」
「あのドリルの、音は、ほんとは、『がんばれ』って、言ってるんだよ」
「え」
「ほんとだよ。『キュイーン』は、『がんばれー』の、『ばー』が、のびた音」
「…………うそだ」
「うそじゃない。いまから、ゆっくり、聞いてみな」
オレは、ドリルを、持っている、先生に、そっと、目で、合図をした。
先生は、ちょっと、笑って、スイッチを、入れた。
キュイーーーーーン。
「ほら。『が、ん、ばー、れー』」
「…………」
男の子は、涙を、ためたまま、耳を、すませた。
しばらくして。
「…………ほんとだ」
「だろ?」
「ちょっと、そう聞こえる」
「な?」
「がんばれー、って、言ってる」
男の子は、ぷっと、小さく、笑った。
涙が、ぽろっと、落ちた。
でも、その顔は、さっきより、ずっと、やわらかかった。
「いけそう?」
「…………うん。やる」
「よし。えらい」
オレは、男の子の頭を、そっと、なでた。
先生が、小声で、言った。
「ありがとう、さくまくん」
「いえ」
「うちの歯科衛生士に、スカウトしたいくらいだよ」
「まだ、小学生なので」
「だよね」
先生は、ふふっと、笑った。
治療室から、出て、待合室で、母さんと、ならんで、座った。
「ヒロキ」
「ん?」
「さっきの、男の子に、言ってたこと」
「…………聞こえてた?」
「ええ。ちゃんと」
母さんは、ゆっくり、オレの、手を、にぎった。
「あなた、こわがりだったのにね」
「うん」
「それが、人のこと、助けて」
母さんの目が、少し、赤くなっていた。
「ヒロキ。いま、すごく、立派なこと、してるわよ」
「…………母さん」
「なあに」
「前、ごめん。治療、途中で、やめさせて」
母さんは、首を、ふった。
「いいのよ。ヒロキは、ヒロキなりに、がんばったもの」
「でも」
「それに、母さんは、あのとき、ちょっと、安心してたの」
「え?」
「ヒロキが、泣いてくれて。こわいって、言ってくれて」
母さんは、遠くを、見るような、目をした。
「あなた、小さいころ、あんまり、泣かない子だったでしょう」
「…………」
「だから、泣いてくれて、ほっとしたの。ちゃんと、気持ちを、見せてくれる子なんだなって」
母さんは、くすっと、笑った。
「母さん、ずっと、こう思ってたのよ。ヒロキが、泣けるうちは、だいじょうぶだって」
胸の奥が、じーんと、あつくなった。
オレは、うつむいて、膝の上の、手を、見た。
「……母さん」
「なあに」
「ありがとう」
「どういたしまして」
待合室の、窓から、夕日が、さしこんで、母さんの横顔を、オレンジに、染めていた。
その夜。
財布を、ひらいた。
名刺入れは、もう、輪ゴムでも、足りなくて、タコ糸で、ぐるぐる巻きになっている。
ほどいて、いちばん下の、行を、探した。
『にこにこ歯科 歯科衛生士 兼務』
「…………歯科衛生士」
声が、ひっくり返った。
「いやいやいや、資格、あるの? オレ、あるの?」
名刺の、裏には、手書きで、一行。
『小学校での、歯みがき指導が、専門です』
「…………案どおりか」
笑った。
笑いながら、あの、泣いていた、男の子の顔が、浮かんだ。
スマホを、ひらいた。
ギャラリー。
一番上の、新しい写真。
どこかの、小学校の、保健室。
白衣の、オレが、模型の、歯を、持って、子どもたちに、説明している。
「ここの、奥の、溝が、いちばん、のこりやすいんだよー」
って、顔だ。
その、うしろで、白衣の、クロダ先生が、にこにこ、見ている。
年を取って、髪が、白くなっているけど、あの、やさしい、先生だ。
写真の下の、メモ。
『今日の、児童の、感想。「ドリルの音は、がんばれ、って言ってるんですよね?」。おれの、受け売りが、母校で、伝説に、なってた』
「…………伝説」
笑いすぎて、腹が、いたかった。
あの、男の子は、ひょっとして、あの、時の、ゆうちゃん、なのか。
二枚目の、写真を、スワイプ。
歯科医院の、診察台の、そばで、白衣の、男の人が、オレと、ピースを、している。
三十代くらいの、背の高い、男の人。
どこかで、見た、気がした。
メモ。
『ゆうちゃん、歯科医に、なりました。「ドリルの音は、がんばれ、です」って、患者さんに、言ってた。母ちゃん、泣いてた』
「…………えええ!?」
声が、でた。
あの、ゆうちゃんが、歯医者に、なってる。
オレの、でたらめの、一言が、27年後、人を、変えてる。
「…………ほんとに、ほこり」
誰もいない、部屋で、つぶやいた。
財布の、ポケットを、のぞくと、小さな、歯の、模型が、入っていた。
プラスチックの、白い、歯。
底に、シールが、貼ってあって、小さな、字で、書いてある。
『がんばれ クロダ歯科』
「…………」
オレは、その、ちっちゃい歯を、そっと、にぎった。
財布の中身が、どんどん、増えていく。
でも、そのぶん、胸の中は、すっきり、していく。
そのはず、なのに。
なぜか、ひとつだけ、重いままのものが、あった。
財布の、いちばん奥の、ポケット。
便せん。
オレは、そっと、ファスナーに、指を、かけた。
でも、あけなかった。
「…………夏休み、か」
つぶやいた。
次の、後悔は、たぶん、それだ。
毎年、最終日に、泣きながら、やった、夏休みの宿題。
でも、いま、季節は、もう、秋の、おわりだ。
どうして、夏休みの、宿題の、話が、浮かぶんだろう。
自分で、自分に、首を、かしげた。
窓の外を、見た。
月が、でていた。
そのとき、気がついた。
窓ガラスに、うっすら、映った、オレの顔。
無精ひげも、目の下のクマも、ここに来た日と、なにも、変わらない。
オレだけが、ずっと、37歳のままだ。
なのに、季節だけが、勝手に、どんどん、進んでいく。
窓の外の、月を、見あげた。
時間は、もう、あんまり、ないのかもしれない。
そんな、予感が、した。




