第20話「歯医者さんの、ドリルの音」
朝ごはんの席で、オレは、卵焼きを、ひとくちずつ、味わっていた。
「ヒロキ、なにその、最後の晩餐みたいな顔」
母さんが、味噌汁をよそいながら言った。
「歯医者の前だから」
「虫歯、あるの?」
「ない。たぶん」
「じゃあ、こわがること、ないでしょ」
ないはずだ。
オレは、37歳だ。
毎晩、歯間ブラシも、フロスも、やっていた。
営業の人間は、歯が、命だ。
笑顔が、取引先への、第一印象だから。
……いや、そういう問題じゃない。
こわいのは、歯じゃない。
あの、音だ。
「お兄ちゃん、歯医者、泣くんだよね」
ミキが、ばっさり言った。
「泣かない」
「前、泣いてたよ」
「前は、前だ」
「ふーん」
ミキは、にやにや、している。
さすが、将来の、しっかり者は、容赦がない。
思い出した。
前のオレは、小5の、秋に、虫歯が、三本、見つかった。
はじめて、歯医者に、連れていかれた日。
待合室に、まで、聞こえてくる、あの、キュイーーーン、という、音。
オレは、母さんの、スカートの、裾を、ぎゅっと、にぎって、離さなかった。
診察台に、座らされた、あとも、ぜんぶ、ぎゅっと、目を、つぶっていた。
先生が、「ちょっと、ひびくよー」と、言うたびに、体が、びくっと、はねた。
結局、治療は、途中で、中断になった。
オレが、泣きじゃくって、口を、あけなくなったから。
母さんは、なにも、怒らなかった。
でも、帰り道で、ちょっとだけ、さびしそうに、言った。
「ヒロキは、こわがりだねえ」
その言い方が、やさしすぎて、よけいに、情けなかった。
学校が終わって、母さんと、歯医者へ、向かった。
「にこにこ歯科」
白い、小さなビルの、二階。
看板に、笑顔の、歯の、キャラクターが、描いてある。
階段を、のぼると、消毒液の、においがした。
あ。
このにおい。
胸が、きゅっと、縮んだ。
37歳でも、条件反射って、あるんだな。
「こんにちはー。さくまです」
「はーい、お待ちしてました」
受付の、お姉さんが、笑顔で、迎えてくれた。
待合室には、子ども向けの、絵本と、おもちゃが、ならんでいる。
壁には、「歯みがきカレンダー」が、貼ってある。
そして、奥の、診察室から。
キュイーーーーーーン。
「…………っ」
オレの背筋が、ぴんと、のびた。
「ヒロキ、だいじょうぶ?」
「だ、だいじょうぶ」
声が、裏返った。
母さんは、にこにこ、している。
「ヒロキは、えらいわね。今日は、ちゃんと、来られて」
「うん」
「母さん、うれしいわ」
その、やさしい声に、また、胸が、ぎゅっと、なった。
「さくまヒロキくーん。どうぞー」
診察室に、通された。
診察台は、思ったより、大きかった。
天井に、でっかい、ライト。
横に、あの、ドリルが、ぶらさがっている。
先生は、白衣の、男の人だった。
メガネで、細身で、声が、やさしい。
胸の名札に、「院長 クロダ」。
「はい、じゃあ、こんにちは。今日は、虫歯の、チェックから、しようね」
「よろしくお願いします」
「おお、礼儀正しいね。じゃあ、あーん、して」
オレは、口を、あけた。
先生が、小さな、ミラーを、口の中に、入れる。
「…………」
先生が、止まった。
ミラーを、動かす。
また、止まった。
「…………お母さん」
「はい?」
「ヒロキくん、毎日、どのくらい、歯みがき、してますか」
「え、あの、朝と晩に」
「フロスは?」
「え?」
「歯間ブラシは?」
「え、え?」
先生は、ミラーを、そっと、抜いた。
そして、オレの口を、のぞきこんだまま、ぽつりと、言った。
「…………虫歯、ゼロです」
「えっ」
「ゼロ。ひとつも、ない」
先生は、目を、まんまるにした。
「しかも、歯ぐきが、ぴかぴかです。この年齢で、ここまで、きれいな口腔内は、初めて、見ました」
「そ、そうですか」
「歯石も、ない。プラークも、ほとんど、ない。奥歯の、溝まで、きれいに、磨けてる」
先生は、うれしそうに、声を、はずませた。
「ヒロキくん。君、どこで、こんな歯みがきを、覚えたの?」
「えっと、本で」
「本!?」
「夢の中で、です」
「夢の中でも、歯みがき、してるのか。すごいな」
先生は、感心しきって、うなずいた。
母さんも、目を、まるくしている。
「ヒロキ、そんなに、がんばってたの?」
「え、あ、うん」
「いつの間に」
「…………」
ばれませんように。
でも、母さんは、ふっと、笑った。
「まあ、いいわ。えらいわね」
そう言って、オレの頭を、ぽんぽん、叩いた。
「じゃあ、せっかくだから、フッ素塗布と、歯みがきの、チェックを、しようか」
「はい」
先生が、小さな、スポンジみたいなものに、ジェルを、つけた。
それを、オレの歯に、そっと、塗っていく。
ひんやり、している。
ドリルは、ぜんぜん、使わなかった。
だって、虫歯が、ないから。
あの、キュイーーーンという、音は、隣の、診察台から、聞こえていた。
「あー、ひくっ、ひくっ」
隣で、小さな子が、泣いていた。
たぶん、3年生くらい。
「だいじょうぶよ、ゆうちゃん、すぐ終わるからね」
お母さんの、声が、おろおろ、している。
「いやだー、こわいー」
その、泣き声を、聞いて、オレの、胸が、ぎゅっと、なった。
前の、オレの、声と、おんなじだった。
「…………先生」
「ん?」
「あの子、ちょっと、見に行って、いいですか」
「え?」
先生が、きょとんとした。
「大丈夫です。ちょっと、声を、かけるだけ」
「…………まあ、いいけど」




