第2話 後編
体育のあと、オレは、教室の机につっぷしていた。
腕が、上がらない。
足が、ガクガクする。
明日、筋肉痛になる自信がある。
いや、小5の体なら今日中に筋肉痛になるのか?
でも、オレの体は、37歳だから、明後日だ。
そういうことか?
どうでもいいか!
「はーい、2時間目は算数です」
先生の声に、顔だけ、持ち上げた。
算数。
黒板に、でかい字で、書かれている。
『分数のたし算(通分)』
通分。
あー、懐かしい。
通分。
小5で習うんだっけ。
「じゃあ、この問題。わかる人ー」
先生が、黒板に、問題を書いた。
『2/3 + 3/4 = ?』
……あれ。
これ、簡単じゃね?
オレの頭が、ぱっと、冴えた。
3と4の最小公倍数は、12。
2/3は、8/12。
3/4は、9/12。
足して、17/12。
帯分数にすると、1と5/12。
……できた。
できた!
できたぞ、オレ!
さっきまで、鉄棒で、ぷらぷらしてたオレが、できた!
「はいっ!」
思わず、でっかい声で手を挙げた。
「お、さくま。やる気だな。じゃあ、前に来て、書いてみて」
「はい!」
ガタッと立ち上がって、前に出た。
チョークを持つ手が、なんか、ちょっとだけ、軽い。
さっきの、鉄棒の鉄のにおいが、ちょっと遠のいた。
さらさらっと、黒板に書いた。
「1と5/12」
教室が、しーんとなった。
ん?
オレ、何か、まちがえた?
「……さくま」
先生が、目をまるくして言った。
「帯分数まで、自分でやったのか」
「え? あ、はい」
「まだ、そこまで教えてないぞ」
あ。
しまった。
やりすぎた。
でも、ここで引き下がるのも、変だ。
「えーと、その……、予習してきました」
「予習? さくまが?」
先生が、めずらしいものを見る目で、オレを見た。
「……あの、ちょっと、できるようになったんです!」
「ほぉ」
先生が、ふふっと笑った。
「じゃあ、もうちょっと難しいのも、やってみるか?」
先生が、黒板に、次の問題をさらさらと書いた。
『5/6 + 7/8 − 1/4 = ?』
おお。
三つ。
しかも引き算。
でも、大丈夫。
6と8と4の最小公倍数は、24。
20/24 + 21/24 − 6/24。
35/24。
帯分数で、1と11/24。
「1と11/24です」
ノータイムで、答えた。
教室が、さっきよりも、もっと、しーんとなった。
「…………」
「…………」
そのあと。
「す……すげーーーー!!!!」
ブッチが、でっかい声で叫んだ。
「ヒロキ、すげー! 天才じゃん!」
「いつの間に、そんなんできるようになったの!?」
「ねえねえ、どうやるの!?」
クラスの何人かが、わらわらとオレのまわりに集まってきた。
え。
え、え、え。
なんだ、この空気。
なんか、ちょっと、ヒーローっぽくね?
……いや、やばい。
これ、すごくいい気分だ。
オレが、中身37歳だってことは、完全に棚に上げて。
でも、いい気分だ。
だって、最近、仕事で、こんなふうに、誰かに「すげー」って言われたこと、ぜんぜんなかったから。
胸の奥が、ぎゅっと、ちがう方向に、ふくらんだ。
「……えへへ」
変な声が出た。
自分でも、気持ち悪い声だった。
でも、ブッチは、ぜんぜん気にしてなかった。
「ヒロキ、おまえ、昨日までこんなんじゃなかったじゃん! なんで!?」
「え、あ、その、あれだよ。夢の中で、勉強してた」
「夢の中!? まじで!? すっげー!」
信じるのか。
そこは、信じるのか、ブッチ。
「じゃあ、今日の夜、ぼくの夢にも出てきて!」
「いや、それは、ムリ!」
「ええー!?」
ツッコミながら、ちらっと、窓際のうしろから2番目を見た。
ユウタが、こっちを見ていた。
ほほえんでいる。
でも、なんか、ちょっとだけ、笑い方が、いつもとちがう気がした。
片方のほっぺの、えくぼが、いつもより、浅かった。
……たぶん。
オレの、気のせいかもしれない。
でも、なんか、ひっかかった。
放課後。
みんなが帰ったあと、オレは、ひとりで、校庭の鉄棒の前に立っていた。
夕方の空は、オレンジ色で、校舎の影が、長くのびている。
さっきまでの騒がしさが、うそみたいに、静かだった。
鉄棒は、昼間より、ちょっと冷たそうに見えた。
「……もう一回だけ」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
バーをにぎって、足を、けった。
ぷらん。
だめだ。
もう一回。
ぷらん。
やっぱり、だめ。
腕が、もう、ぷるぷるすら、しなくなってきた。
「……なにやってんだ、オレ」
37歳が。
だれもいない校庭で、逆上がり。
誰かに見られたら、通報されるレベルだ。
でも、ほんとうは、ちょっとだけ、悔しかった。
算数では、ヒーローになれたのに。
体育では、ただの、ぶら下がりおじさんだ。
「ヒロキ?」
びくっとして、振り向いた。
ユウタが、立っていた。
ランドセルを背負ったまま、校門のところから、こっちを見ている。
「ユウタ……帰ったんじゃなかったの?」
「うん。でも、ヒロキ、教室にいなかったから」
ユウタは、トコトコと、近づいてきた。
「逆上がり、練習してたの?」
「……う、うん。まあ」
「ぼくもね、できないんだ」
え。
「ぼくも、逆上がり、できないの。だから、ヒロキといっしょに、練習してもいい?」
ユウタは、ちょっと、てれくさそうに、笑った。
えくぼが、片方だけ、ぽこっと浮かんだ。
胸の奥が、ぎゅっとなった。
今日、いちばん、強かった。
「……いいよ」
声が、思ったより、かすれた。
「じゃあ、ぼく、ヒロキの足、おすよ!」
「いや、それは、オレが、ユウタの足を……」
「いいから、いいから! ほら、やってみて!」
ユウタが、オレの後ろに回って、ぐいっと、足をおしてくれた。
オレは、鉄棒を、ぎゅっとにぎった。
夕日が、バーの上で、光っていた。
結局、その日は、できなかった。
でも、帰り道、ユウタは、ずっと、笑っていた。
オレも、なんか、ずっと、笑ってた気がする。
何のために、タイムスリップしてきたのか、まだ、わからない。
でも、ユウタの笑ってる顔を見てると、そんなこと、どうでもよくなってくる。
……いや、だめだ。
どうでも、よくない。
だって、オレは、この子に、言わなきゃいけないことがあるんだ。
ちゃんと、思い出さなきゃ。
あのとき、オレが、何を言ったのか。
家に帰って、ランドセルの底から、財布を出した。
名刺入れを、ひらく。
『サクマ文具販売 営業第三課 佐久間宏樹』
……あれ?
ちょっとだけ、文字が、にじんでいる気がした。
目をこすって、もう一回、見た。
やっぱり、いつもの名刺だ。
気のせいか。
でも、「第三課」の「三」の字だけ、ほんの少し、薄くなっているように、見えた。
たぶん、疲れてるんだ。
オレは、名刺を、財布にしまった。
その夜、布団の中で、天井を見ていた。
腕と足が、すでに、ちょっと痛かった。
……もう、筋肉痛、きてるじゃん。
37歳の体なのに。
どうなってんだ、この世界。




