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第2話「逆上がりと、通分と」

教室の時計を見た。


8時40分。


窓の外では、桜の葉っぱがさわさわ揺れている。


「えー、今日の1時間目は体育です。みなさん、体操服に着替えてくださいねー」


担任のタカハシ先生が、出席簿をパタンと閉じて言った。


……体育。


体育!


さっきまでの「とりあえず今日一日やってみよう」という前向きな気持ちが、音を立ててしぼんでいった。


だって、オレ、37歳だぞ。


最後に全力で走ったのは、たぶん、終電に間に合うかどうかのときだ。しかも間に合わなかった。


「ヒロキ、早く着替えようぜ!」


ブッチが、すでに上半身ハダカで、元気にくるくる回っている。


やめろ。


おなかがぷよぷよ揺れてる。


小5の無邪気さが、まぶしすぎる。


体操服は、ランドセルのとなりにかけてあった。


白い半袖と、紺色のブルマ……じゃなくて、ハーフパンツ。


セーフ。


ほんとに、セーフ。


ブルマだったら、オレは今ここで、人生を終えていた。


「GO! GO! 5年生!」を脱いで、体操服を着てみた。


こっちも、パツパツだった。


ただ、さっきのTシャツよりは、まだ人間の服っぽい。


胸のところに、白い布が縫いつけてある。


『5-2 さくま ひろき』


ひらがなで。


37歳が、ひらがな。


なんだろう、この、むずがゆい感じ。


「ひもほどけてるよ」


とユウタ


「ありがとう」


足もとを見ると、運動ぐつのひもが、だらーんとのびていた。


しゃがんで結んでいるあいだに、ユウタは、ブッチに引っぱられて先にいってしまった。


ほんの少し、さびしかった。


……いや、なんで。


小5相手に。


校庭は、思ったより広かった。


土のにおいがする。


砂ぼこりと、石灰の白い線。


この感じ、ほんとに、ほんとに久しぶりだ。


「はーい、じゃあ今日は、鉄棒をやります」


先生の声に、あちこちから「えー!」「やだー!」の声があがった。


鉄棒。


その二文字を聞いた瞬間、オレのおなかの奥が、きゅうっと縮んだ。


思い出した。


そうだ。


オレ、逆上がり、できなかったんだ。


小5の夏まで、ずっと。


「今日は逆上がりのテストをします。できる人は、先に、さか上がりの連続にチャレンジしてもいいですよ」


テスト。


聞いてない。


聞いてないけど、そりゃそうだ。小5のオレが聞いてたはずがない。


いや、でも、待て。


今のオレは、頭だけじゃなくて、体も、37歳だ。


つまり。


オレは、37歳の体で、逆上がりをする。


……できるか?


いや、無理だろ。


でも、「大人の体力」ってあるだろ。


筋肉とか。


経験とか。


ほら、なんかあるだろ!


ない。


ぜんぜん、ない。


「じゃあ、出席番号順にいくぞー。さくまー」


オレ、早い!


出席番号、早い!


「は、はいっ」


鉄棒の前に立った。


高さは、ちょうど、オレのおへそ。


ちっちゃい。


この鉄棒、ちっちゃいのに、なんでこんなに、こわいんだ。


両手でバーをにぎった。


冷たくて、ちょっとザラザラしていて、手のひらに、昔の記憶がよみがえってくる。


くさった鉄のにおい。


まめがつぶれて、ヒリヒリしたこと。


「できねー」って、笑われたこと。


……って、最後のは、いらない記憶だ!


「よーし。足を地面からはなして、そのまま、バーを胸まで引きつけて。で、足をぐるんっと」


先生の声が、遠くのほうから聞こえる。


オレは、足を、ぐいっと、けった。


けった、はずだった。


でも、体が、ぴくりとも持ち上がらない。


バーにぶら下がったまま、オレの両足は、地面から10センチくらい浮いて、空中でぷらぷらしていた。


「……」


「……」


みんなが、オレを見ている。


「ヒロキ、足、もっと上!」


「がんばれー!」


ブッチとユウタの声が聞こえる。


オレは、もう一回、けった。


さっきより、強く。


腕が、ぷるぷるしてきた。


37歳の腕力は、鉄棒にぶら下がるだけで、限界らしい。


三回目。


四回目。


何回やっても、体が、バーの下で、ふにゃっとなるだけ。


惜しくもない。


「あとちょっと」でもない。


ぜんぜん、ぜんぜん、あとちょっとじゃない。


ただ、おじさんが鉄棒にぶら下がって、ぷらぷらしてる。


それだけ。


「……う、おりる……」


手をはなして、そのまま、ドサッと着地した。


ひざがガクッとなって、お尻から、土にすわりこんだ。


「あー、惜しかったなあ!」


先生が、笑いながら言った。


惜しくない。


先生、嘘つかないで。


でも、まわりの子たちは、誰も笑ってなかった。


「ドンマイ、ヒロキ!」


「次はできるよ!」


ブッチが、うんうんとうなずいている。


なんで、そんなに、やさしいんだ。


オレ、37歳なのに。


37歳が、逆上がりもできなくて、地面にすわりこんでるのに。


どうしてみんな、「小5のヒロキ」として、あたりまえみたいに励ましてくれるんだろう。


胸の奥が、ぎゅっとなった。


うれしいのか、情けないのか、よくわからない。


たぶん、両方だ。


……このパターン、もう何回目だ。



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