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第17話「ピカピカの、秘密」

朝、目が覚めて、最初に思ったのは、これだった。


「あなたが、全部、返してからよ」


母さんの声が、まだ、耳に残っている。


全部、返したら、どうなる。


考えると、胸がずーんとなる。


だから、考えないことにした。


……いや、考えないのは、ずるいか。


でも、考えても、答えは出ない。


わからない。


とりあえず、卵焼きを食べよう。


「ヒロキ、きょう、図工の時間、雑巾いるって」


母さんが、台所から、言った。


「雑巾?」


「掃除用の、新しいやつ。縫っといたから、持っていきなさい」


ちゃぶ台の上に、白い布が、一枚、置いてあった。


ちゃんと、二つ折りで、ミシンの縫い目が、きれいにまっすぐ、入っている。


端っこに、赤い糸で、ひらがな。


『さくま ひろき』


……ゼッケンかよ。


でも、その、赤い糸の、ちょっとだけ、曲がった「ひ」を見たら、また、鼻の奥が、つーんとした。


母さん、いつも、ミシンか。


「ありがとう」


「どういたしまして。ちゃんと、使いなさいよ」


「うん」


そのとき、雑巾を持った手が、ぴたっと、止まった。


あ。


きょうって、掃除の、回だ。


思い出した。


前のオレは、掃除の時間が、大きらいだった。


めんどうくさい。


つまらない。


だから、毎日、ほうきを持って、すーっと、消えた。


トイレに、行くふりをして。


ほうきを、ギターにして、廊下の、すみで、ひとり、ライブをして。


そして、チャイムが鳴る、ぎりぎりに、教室に、戻る。


その間、班の、ほかの子が、全部、やってくれていた。


ひとりだけ、いつも、文句も言わずに、やってくれた子がいた。


イノウエくん。


メガネで、ひょろっとしていて、動きが、ちょっと、遅い子。


オレは、イノウエくんが、先生に、「この班、サボってるな」って、怒られているのを、見たことがある。


イノウエくんは、うつむいて、ただ、「はい」って、言っていた。


サボってたのは、オレなのに。


オレは、そのとき、廊下で、ほうきを、ギターにして、遊んでいた。


そして、あとから、ちらっと、それを、聞いた。


でも、なにも、言わなかった。


言いに、行かなかった。


「…………」


雑巾を、ぎゅっと、にぎった。


「ヒロキ? 顔、こわいわよ」


「ううん。なんでもない。いってきます」


「いってらっしゃい」


給食のあと。


校内放送が、ゆるーい、音楽を、流しはじめた。


掃除の時間だ。


教室が、がたがた、動き出す。


机を、うしろに、さげる。


みんな、わいわい、しゃべりながら、ほうきを持ったり、雑巾を、しぼったり。


オレの班は、四人だった。


オレと、ブッチと、サトウさんと、イノウエくん。


「じゃあ、きょうの、分担を、決めるよー」


サトウさんが、ポケットの、ウサギ用スコップに、さわりながら、言った。


「ほうきが、ふたり。雑巾が、ふたり」


「おれ、ほうき!」


「ブッチは、ほうきで、遊ぶからだめ」


「遊ばないよ!」


「前に、野球、してた」


「あれは、事故!」


オレは、ふっと、手を挙げた。


「オレ、雑巾がけ、やる」


みんなが、きょとんと、した。


「ヒロキ、雑巾がけ、やるの?」


「うん」


「でも、ヒロキ、いつも」


サトウさんが、言いかけて、やめた。


あ。


そうか。


オレ、いつも、いなくなってたんだ。


こっちの世界の、小5のヒロキも、きっと、そうだった。


「……きょうは、ちゃんと、やる」


「ほんと?」


「ほんと」


サトウさんは、半信半疑の顔で、うなずいた。


イノウエくんは、なにも、言わずに、バケツを、持って、水道に、向かった。


オレは、そのうしろ姿を、見て、胸が、ちくっと、した。


雑巾を、水に、ぬらした。


冷たい。


ぎゅっと、しぼる。


ここで、スイッチが、入った。


また、あの、37歳の、スイッチだ。


雑巾は、ただ、ぎゅっと、しぼるんじゃない。


端を、持って、ねじる。


ねじりながら、手のひらで、こすって、水を、切る。


水が、ぽたぽたでは、だめ。


「ぬれてる」と「しっとり」の、あいだ。


そこが、勝負だ。


これは、前の会社で、新人のとき、先輩に、さんざん、叩きこまれた。


営業なのに、なぜか、オフィスの、掃除当番が、まわってきて、だ。


「雑巾の絞り方で、仕事の質が、わかる」


と、部長が、言っていた。


そのときは、なんだこの人、って、思った。


でも、いま、役に、立っている。


「ヒロキ……なんか、雑巾が、きれい」


「ふっふっふ」


オレは、雑巾を、四つ折りにした。


「広げて、使うと、汚れが、広がるんだ。折りたたんで、面を、変えながら」


「へー」


「床は、端から、中心に、向かって」


「へー」


「ほこりは、舞い上げないように、ゆっくり」


「ヒロキ、プロみたい……」


「いや、プロじゃない」


でも、体は、勝手に、動いた。


教室の、床を、すーっ、すーっ、と、ふいていく。


木目に、沿って。


机の、足のまわりは、小さな円を、描いて。


あれ。


気持ちいい。


床が、みるみる、つやつやに、なっていく。


オレの、うしろを、ブッチが、ほうきで、はいていた。


「ヒロキ、速い!」


「ブッチ、ほうきは、はじから、中心に、はくんだ。ごみが、散らばらない」


「なるほど!」


ブッチは、すぐに、まねをした。


サトウさんは、黒板を、ふいている。


「黒板消しも、クリーナーで、すぐ、すわせるんじゃなくて、窓の、外で、はたいてから」


「え? あ、はい」


「チョークの粉は、ぜんぶ、外へ」


「はいっ!」


気がつくと、オレは、現場監督になっていた。


「イノウエくんは、窓、お願い。上から下に、ふくんだ。下から、ふくと、水が、垂れて、また、汚れる」


「…………うん」


イノウエくんは、小さい声で、返事をした。


でも、その手は、ちゃんと、動いていた。


いつもの、半分の、時間で、終わった。


教室は、ぴかぴかだった。


床が、窓の、光を、はねかえしている。


黒板は、真っ黒で、ちっとも、白くない。


窓ガラスは、ほとんど、透明だ。


「…………」


ブッチが、ぼーっと、立っていた。


「ヒロキ、すごい」


「そうか?」


「教室が、おれの、家より、きれい」


「それは、ブッチの家が、だな」


「ひどい!」


そこへ、タカハシ先生が、入ってきた。


「おーい、掃除、終わったか……」


先生の言葉が、止まった。


きょろきょろ、教室を、見回す。


「…………だれの、教室だ、これ」


「5年2組の、教室です」


「いや、うちの教室って、こんなに、ぴかぴか、だったか?」


先生は、床に、しゃがんで、指で、すーっと、なぞった。


指に、ほこりが、つかない。


「さくま。これ、おまえが、やったのか」


「みんなで、やりました」


「雑巾の、絞り方、見せてみろ」


「はい」


オレは、雑巾を、ぎゅっと、ねじった。


先生は、それを、じーっと、見て、感心した顔で、ため息をついた。


「職人技だな」


「そんな」


「この子の家、お手伝いさんでも、いるのか?」


「いません!」


「いや、でも」


先生は、真顔だった。


「さくま、お前が来てから、うちのクラスは、なにか、おかしい」


「え」


「いい意味で、だぞ」


先生は、にやっと笑った。


いい意味で、か。


それなら、いい。


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