第8話「アンカーと、37歳のひざ」
「えー、リレーの選手を決めます!」
朝の会で、タカハシ先生が言った。
教室が、わっと沸いた。
運動会は、三週間後。
白組と赤組にわかれて、クラス対抗のリレーがある。
男子四人、女子四人の、計八人。
アンカーは、男子で、いちばん、おいしいポジションだ。
……と、みんなは思っている。
オレは、ちがう。
アンカーは、地獄だ。
前の人たちが、どれだけがんばっても、最後に、ぜんぶ背負わされる。
小5のオレは、そこで、ビリになった。
ゴールした瞬間、白組の席が、しーんとなった。
あの、しーん、は、いまでも耳に残ってる。
「じゃあ、まず、50メートル走のタイムを、はかります」
先生は、ストップウォッチを、ぶんぶん振った。
結果から言う。
オレは、クラスの男子で、最下位だった。
9秒8。
ブッチですら、9秒1だった。
あの丸い体で、9秒1。
足が、ものすごく、回転してた。
「ヒロキ、おそっ!」
「おじさんが走ってるみたいだった!」
笑い声が、あがった。
おじさん、じゃなくて、おじさんなんだよ。
でも、37歳の体で、9秒8は、意外と、がんばったほうだと思う。
最後に全力で走ったの、いつだ。
終電だ。
間に合わなかった。
ひざが、がくがくしている。
でも、こういうのは、いやな気分じゃなかった。
できないことを、できないまま、まわりに見せていい。
それが、この世界の、ルールみたいだったから。
「じゃあ、タイム順に、選手を」
先生が言いかけたとき、教室の、うしろのほうから、声があがった。
「せんせーい! アンカーは、ヒロキがいいと思います!」
ブッチだった。
「え」
「だって、ヒロキ、神だし! ゲームも、算数も、ひじきも、なんでもできるし! アンカーは、ヒロキ!」
「いや、ちょっと待て、ブッチ!」
「賛成ー!」
「ヒロキなら、なんかやってくれそう!」
「夢の中で、走る修行したんじゃない?」
してない!
してないぞ、そんなの!
「さくま、どうする?」
先生が、困ったように笑っている。
教室中の目が、オレに、集まっていた。
期待、って、こういう顔のことを言うんだと思う。
キラキラしてて。
うたがいがなくて。
こわい。
「……えっと」
断れなかった。
断る、って、選択肢が、頭に、浮かばなかった。
だって。
前のオレは、くじ引きで、アンカーになった。
今回は、みんなが、オレを、選んでくれた。
それは、うれしいことのはずなのに、なんでか、胃が、ずーんと重かった。
「……やります」
わーっと、拍手が起きた。
その中で、ユウタだけが、心配そうに、オレの顔を見ていた。
それから、特訓がはじまった。
朝は、校庭を、ぐるぐる。
放課後は、ブッチの家の前の、団地の公園で、ダッシュ。
「ヒロキ、足の回転が、おそい!」
「うるさい! こっちは、ひざが、悲鳴あげてるんだよ!」
「ひざって、なに?」
「ひざは、人間の、弱点だ!」
「へー!」
ブッチは、元気に、走っていった。
ユウタは、メジャーで、距離をはかってくれた。
「ヒロキ、バトンの受け取り、練習しよう」
「うん」
ユウタは、公園の、ベンチの足を、バトンの代わりにしてくれた。
「次の人が走ってくるから、右手を、うしろに出して。ふりむいちゃだめ」
「ふりむかないの?」
「うん。前を見て、走りながら、手だけ、うしろ」
「こわくね?」
「こわいよ。でも、信じるんだって」
ユウタは、ちょっと、てれたように笑った。
「……って、先生が言ってた」
信じる、か。
オレは、手を、うしろに出した。
そこに、ユウタが、ぺちっと、ベンチの足、じゃなくて、ちっちゃな手を、乗せた。
「いいよ。ヒロキ、いま、ばっちり!」
たかが、バトンの練習なのに。
なんか、じーんとした。
最近、オレ、泣きすぎだ。
夜は、毎晩、筋肉痛だった。
37歳の筋肉痛は、遅れてやってくる。
走った次の次の日に、ふくらはぎが、石になる。
「いたたたた……」
「お兄ちゃん、おじいちゃんみたい」
「ミキ、お兄ちゃんは、がんばってるの!」
「知ってるよ。だから、湿布、貼ってあげる」
ミキは、ぺたぺたと、ふくらはぎに、湿布を貼ってくれた。
冷たくて、においが、きつくて、でも、ありがたかった。
「おかあさんに、言われたの。お兄ちゃんが、がんばってるときは、ちゃんと、見てあげなさいって」
「……母さんが?」
「うん。ミキも、おうえん、ちゃんとするからね!」
ちっちゃい、湿布の貼り方は、へたくそだった。
でも、いちばん、効いた。
運動会の日は、よく晴れた。
校庭に、万国旗が、はためいている。
白いラインが、まっすぐ、のびている。
保護者席には、ビデオカメラを持った大人が、ずらっと並んでいた。
もちろん、その中に、父さんもいた。
1999年のビデオカメラは、肩にのせる、でっかいやつだ。
「ヒロキー! がんばれよー!」
でかい声で、ぶんぶん、手を振っている。
やめて。
その声、全校児童に聞こえるから。
「兄ちゃん、がんばれー!」
ミキが、母さんと並んで、小さな旗を、振っていた。
オレは、白いはちまきを、ぎゅっと、結びなおした。
その下は、「GO! GO! 5年生!」……じゃなくて、白組の、体操服だ。
セーフ。
でも、半ズボンは、あいかわらず、パツパツだった。
リレーは、午後の、いちばん最後。
運動会の、ラスト競技だ。
白組と赤組の、点数が、ほぼ同点。
つまり、このリレーで、勝ったほうが、優勝。
……プレッシャー、ひどくない?
「ヒロキ、だいじょうぶ? 顔、色、ないよ」
ユウタが、そばに、来た。
ユウタは、第一走者だった。
こっそり、足が、速かったのだ。
人は見かけによらない。
「だいじょうぶ。たぶん」
「ヒロキ、手、つめたい」
ユウタが、オレの手を、ぎゅっと、にぎった。
「ぼくね、もしヒロキが、ビリでも、ゴールで、待ってるから」
「……ユウタ」
「ビリなんて、ぜんぜん、こわくないよ。だって、ヒロキと、いっしょに、ぶらんぶらん、したじゃん」
あー。
ぶらんぶらんか。
オレは、ふっと、笑った。
「わかった。じゃあ、ビリでも、走る」
「うん!」
「位置について!」
ユウタが、スタートラインに、走っていった。
ピストルが、鳴った。
パン!
第一走者、ユウタが、飛び出した。
はやい。
はやい、はやい。
ちっちゃい体が、風みたいに、つっこんでいく。
赤組の子と、並んで、バトンを、わたした。
第二走者。
第三走者。
ブッチは、第三走者だった。
ブッチは、丸い体を、ぶるんぶるん、ゆらしながら、必死に走った。
「ブッチ、いけー!」
「がんばれー!」
ブッチは、赤組の子に、ほんの少し、抜かれた。
それでも、最後まで、足を、とめなかった。
バトンが、第四走者に、わたった。
そして、そのまま、オレのところに、回ってきた。
「ヒロキ! たのむ!」
第四走者が、息をきらして、走ってくる。
赤組と、白組の、差は、五メートルくらい。
追いつけない距離じゃ、ない。
でも、オレは、おじさんだ。
「ヒロキ!!!」
右手を、うしろに、出した。
ふりむかない。
前だけを、見る。
パシッ。
バトンが、手のひらに、乗った。
いけ。
いけ、オレ。
オレは、地面を、蹴った。
最初の五十メートルは、がんばれた。
前を走る、赤組のアンカーの背中が、ちょっとずつ、近づく。
あれ。
いける?
いけるんじゃない?
でも、百メートルを、過ぎたあたりから、足が、重くなった。
ひざが、ずきん、と鳴った。
息が、苦しい。
肺が、焼けるみたいだ。
背中が、遠ざかっていく。
だめだ。
足が、前に、出ない。
オレは、37歳だ。
もう、おじさんなんだ。
その事実が、ずーんと、頭の中で、響いた。
「ヒロキー!! あとちょっとー!!」
「がんばれー!!」




