第7話 後編
ユウタは、ゲームボーイのソフトを、胸のところで、ぎゅっと握っていた。
「……ヒロキ」
「うん」
「ぼくね」
ユウタが、ぽつり、と、言った。
「あの日、すごく、いやだった」
「……うん」
「帰ってから、ベッドで、いっぱい泣いた」
「……うん」
「ヒロキのこと、きらいになりそうだった。……でも、ほんとは、きらいに、なりたくなかった」
目の奥が、熱くなった。
もう、止めなかった。
「だって、ヒロキ、ぼくに、はじめて、ゲーム、いっしょにやってくれた子だったから」
ユウタは、鼻をすすった。
「だから、今日、ほんとは、ちょっと、こわかったんだ。ヒロキが、また、前みたいに、なっちゃうんじゃないかって」
「ならないよ」
「……ほんと?」
「ならない。ぜったい」
あんまり力いっぱい言ったから、声が、裏返った。
ユウタが、ふっと、吹き出した。
「いまの声、ヒロキ、また、ひよこ」
「うるさい!」
「あはは!」
ユウタが、笑った。
えくぼが、ぽこっと、浮かんだ。
いままで見たなかで、いちばん、深くて、いちばん、まるいやつだった。
「ゆるす、ってことで、いい?」
「うん。ゆるす」
ユウタは、ゲームボーイのソフトを、両手で、ぎゅっとにぎった。
「でもね、ヒロキ」
「ん?」
「ひとつだけ、条件があります」
「条件?」
「逆上がり、ぼくといっしょに、できるようになること」
「…………」
ハードル、たかっ。
「それは、ちょっと、長い戦いになるかもな」
「いいよ。ぼく、待つよ」
ユウタは、鉄棒に、手をかけた。
「せーの、で、いっしょに、蹴ろう!」
「おう!」
並んで、バーをにぎった。
軍手が、ふたつ、並んでいる。
「せーのっ!」
ふたりで、地面を、蹴った。
ぷらん。
ぷらん。
ぷらーん。
ふたりそろって、ぶらさがって、そろって、ゆれていた。
「…………」
「…………」
「ぷはっ!」
「あははははは!」
笑いが、とまらなかった。
腹が、いたい。
37歳が、腹を抱えて、笑っている。
鉄棒に、ぶらさがったまま。
そのとき、ユウタが、ふっと、言った。
「ヒロキ」
「ん?」
「ぼくね、いなくなっちゃうって、思ってたんだ」
「え」
「ほんとは、おばあちゃんの町に、行く話があったの。おとうさんの仕事のこととか、ぼくが、学校、行きたくなくなったら、そうしようって」
「…………」
「でも、行きたくなくなかった。ヒロキと、まだ、友だちでいたいから」
ユウタは、にっこり、笑った。
「だから、ぼく、ここにいるよ」
涙が、ぼろぼろ、こぼれた。
鉄棒に、ぶらさがったまま、泣いた。
オレは、27年かかって、やっと、この場所に、帰ってきたんだと思った。
「……ヒロキ、また、ほこり?」
「ちがう。これは、ほんとに、泣いてる」
「あ、認めた」
「認めるよ! もう、認める!」
ユウタが、また、笑った。
家に帰って、すぐ、ランドセルを、ひっくり返した。
財布。
スマホ。
手が、ふるえていた。
名刺入れを、開く。
『株式会社 みやび芸能 マネージャー 佐久間宏樹』
文字は、変わっていなかった。
でも、その下に、小さな、新しい行が、増えていた。
『担当アーティスト 水野 優太』
「…………」
水野。
そうだ。
ユウタの苗字は、水野だった。
どうして、いままで、思い出せなかったんだろう。
名前を、指で、そっとなぞった。
『水野優太』。
ひらがなで、「みずの ゆうた」と、読む。
……担当、アーティスト?
「え、うそ、でしょ」
スマホを、開いた。
バッテリーは、ずっと、100%のまま。
ギャラリーを、ひらく。
ゆっくり、スクロールする。
トレイの写真。
ブッチと肩を組んだ写真。
ステージのそでの写真。
そして、一番上に。
新しい写真が、あった。
どこかの、舞台の、裏。
白い壁と、楽屋の、鏡の前。
スーツすがたの、細身の男の人が、ふたり。
ひとりは、オレだ。
もうひとりは。
色白で、前髪が、ちょっと長くて、笑うと、片方のほっぺに、えくぼが、できる。
「…………ユウタ」
写真の中のユウタは、きれいな、羽織を着ていた。
少し、緊張した顔で、でも、すごく、うれしそうに、笑っている。
オレは、その横で、タオルを持って、ちょっと、ゆがんだ顔で、泣き笑いしている。
写真の下に、小さな文字。
『初日、お疲れさま。ずっと、待ってた』
撮影日は、昨日。
指が、ふるえた。
「……まじでっ」
声が、でかくなった。
あわてて、口をおさえた。
でも、うれしくて、止まらなかった。
ユウタが、いた。
未来の、ちゃんと、オレの隣に。
さらに、スクロールした。
下のほうに、あの、ぶれた夜の道の写真が、あった。
ランドセルの、ちいさな影。
昨日までは、ひとりだった。
いまは、ふたりになっていた。
ランドセルの、ふたつの影が、肩をならべて、歩いている。
ひとりは、細くて。
もうひとりは、ちょっと、でかくて。
……あの影、オレか。
小5の、オレ。
ぼやけた、夜の道が、ほんの少しだけ、あたたかい色に、見えた。
画面が、ふっと暗くなった。
そのとき、オレは、ようやく、気がついた。
ずっと、胸のあたりに、つかえていたものが、ない。
何十年も、ここに、ひっかかってたもの。
それが、消えている。
「……軽っ」
つぶやいた声は、ちゃんと、おじさんの声だった。
でも、なんだか、ちょっとだけ、楽な声だった。
その夜、ごはんのとき、母さんが言った。
「あ、そうだ。ヒロキ、運動会の、リレーの選手決め、明日だって。連絡帳に、書いてあった」
「……え」
箸が、ぴたっと止まった。
運動会。
リレー。
その二つの言葉を聞いた瞬間、胃のあたりが、きゅっと、縮んだ。
そうだった。
オレ、これも、あった。
小5の、運動会。
アンカー。
ビリ。
泣いた。
「お兄ちゃん、リレー、でるの? おそいのに」
ミキが、ばっさり言った。
「おそくない」
「おそいよ」
「……おそいな」
「うん」
父さんが、ごはんを噛みながら、くすくす笑っている。
母さんも、笑っている。
オレは、味噌汁を、ずずっと、すすった。
一個、終わった。
でも、後悔は、まだまだ、あるんだ。
ひとつ、ずつ、返していこう。
そう思って、茶わんを持つ手に、ちょっとだけ、力をこめた。




