三十三歳の足音
三月の終わり、東京の桜が満開を過ぎ、散り際の美しさを競い合う頃。香帆は三十三歳の誕生日を迎えた。
朝、いつものように鏡の前に立つ。
三十二歳の昨日と、三十三歳の今日。細胞が劇的に入れ替わるわけでもないのに、数字が一つ増えるだけで、鏡に映る自分を見る目が少しだけ厳しくなる。
ファンデーションのノリが、心なしか昨日より悪い気がする。目尻の微かな乾燥のサインを見逃せず、いつもの倍の時間をかけてアイクリームを叩き込んだ。
(三十三か……)
二十代の頃、三十三歳と言えば「完全なる大人」だと思っていた。バリバリと仕事をこなし、家庭を持ち、自分の人生の舵取りを完璧にこなしている存在。
今の自分はどうだろう。
仕事の責任は増した。けれど、私生活の停滞感はどうだ。三年前の別れから一歩も踏み出せず、傷つくのが怖くて「自由」という名の安全地帯に閉じこもっている。
スマートフォンが震えた。実家の母親からのLINEだった。
『誕生日おめでとう。身体には気をつけて。お父さんと、香帆の将来のことだけが心配だねって話しています。美味しいお米を送ったから、ちゃんと食べなさいね』
「将来のこと」。
それは「結婚」という言葉を使わない、母なりの最大限の配慮であり、同時に最も重いプレッシャーだった。
返信に窮し、結局「ありがとう。仕事頑張るね」という無難な言葉だけを返した。母が求めているのは、そんな報告ではないと分かっていながら。
その日の夜、いつものダイニングバーで結衣と美香が誕生日を祝ってくれた。
運ばれてきたデザートプレートには、チョコペンで『Happy Birthday Kaho』と書かれている。
「おめでとう、香帆。ついに三十三歳ね」
美香がシャンパングラスを掲げる。
「ありがとう。でも、なんだか素直に喜べない数字になってきたわ」
「何言ってるの。三十代はこれからが本番よ。……と言いたいところだけど、正直、私も最近焦りを感じるわ。マッチングアプリの『年齢フィルタ』っていう残酷な壁を、嫌というほど実感してるから」
美香の言葉は重かった。
三十三歳。出産や将来のライフプランを逆算した時、多くの男性が設定する「三十歳まで」あるいは「三十二歳まで」というフィルタから、自分たちが静かに弾き出され始めていることを、彼女たちは痛いほど知っていた。
「私はさ……」
結衣が、少し赤くなった顔で言った。
「香帆には、私みたいな『平穏だけど何かが足りない』生活じゃなくて、心から『この人だ』って思える人と一緒にいてほしいと思う。でも、時間は待ってくれないのも事実なんだよね」
既婚者の結衣から出る言葉は、いつも以上に現実的だった。
「高望み」をしていないつもりでも、年齢を重ねるごとに「相手に求める最低限」のハードルは、無意識のうちに上がっていく。それは、自分自身が自立し、自分の世界を確立してしまったからこそ、それを崩してまで他人を受け入れるコストが大きくなってしまうからだ。
会が終わり、一人でタクシーに乗って帰路につく。
車窓を流れる夜の街は、新しい季節への期待に満ちているように見えた。
帰宅して、母から届いた段ボールを開ける。
そこには、地元福井の美味しいお米と、香帆が好きな銘菓、そして手書きの短い手紙が入っていた。
『あんまり無理しなくていいからね。いつでも帰っておいで』
その優しさが、今の香帆には一番堪えた。
自由でいたい。でも、一人でいることに耐えられなくなる夜がある。
仕事は楽しい。でも、この達成感を分かち合える誰かが隣にいないことに、ふと虚しさを覚える。
香帆は、脱ぎ捨てたストッキングを手に、ソファに座り込んだ。
三十三歳。
足音が聞こえる。それは、自分の人生が取り返しのつかない方向へ、刻一刻と進んでいる音だった。
「……私、どうしたいんだろう」
暗いリビングに、その問いだけが寂しく響いた。
ふと、仕事用のバッグからスマートフォンの通知が光った。
それは、アプリの通知でも、母からのLINEでもなかった。
仕事のプロジェクトで一緒になった、他部署の瀬戸からのメッセージだった。
『誕生日おめでとうございます。遅くなってすみません。今度、美味しいお酒、お祝いさせてください』
その何気ない一文が、冷え切った香帆の心に、小さな、本当に小さな波紋を広げた。




