三十三歳の足音(後半)
画面に浮かんだ「瀬戸」という二文字を、香帆は瞬きもせずに見つめていた。
心臓が、自分でも驚くほどはっきりとした鼓動を刻む。それは恋のときめきというよりは、予期せぬ場所で背後から名前を呼ばれた時の、あの動揺に近い。
(……なんで?)
思考が急速に回転を始める。
瀬戸とは、半年前の全社プロジェクトで数回チームを組んだ。仕事の進め方は丁寧で、衝突が起きても穏やかに調整してくれる彼には、香帆も密かに信頼を寄せていた。けれど、プロジェクトが終わってからは、廊下ですれ違った時に会釈を交わす程度の関係だ。
第一の疑問が、冷たい水滴のように頭に落ちる。
――そもそも、どうして私の誕生日を知っているの?
社内のチャットツールを確認する。ステータス欄に誕生日の設定はしていないはずだ。グループの飲み会でふと口にしたことがあっただろうか。それとも、人事データにアクセスできるような立場だったか。いや、彼は営業推進部の人間だ。そんなはずはない。
いくつかの可能性を検討し、香帆は一つの仮説に行き着いた。
(……去年のプロジェクト中、打ち上げで免許証を出した時?)
あの時、本人確認のために出したカードを、彼は隣で見ていたのかもしれない。だとしたら、一年前の些細な記憶を、彼は今まで留めていたことになる。
第二の疑問。
――彼は、私のことをどう思っているのだろう。
「お祝いさせてください」という言葉。
これを単なる「同僚としての社交辞令」と受け取るには、日付が変わる間際のこのタイミングは、あまりにも個人的すぎる気がした。けれど、マッチングアプリで出会った男たちのような分かりやすい「下心」や「効率」とも違う、温度の読めない優しさがある。
瀬戸さんは、確か独身だったはずだ。
以前、美香との会話で「あそこの瀬戸さんって、普通にいい人だけど、隙がないよね」と噂されていたのを思い出す。
香帆はスマートフォンを握ったまま、薄暗いリビングで立ち尽くしていた。
もし、これが「誘い」だとしたら。
もし、このメッセージの先に、私がずっと探していた「普通」が待っているのだとしたら。
(……怖い)
不意に、強い拒絶反応が胸を焼いた。
誰かに踏み込まれること。自分の平穏なルーティンが乱されること。そして何より、瀬戸さんのような「まともな人」に近づいて、またしても自分の醜い執着や、三年前から動けないままの情けない中身を見透かされてしまうこと。
アプリで会った高橋さんのように「条件」だけで割り切れる相手なら楽だった。
けれど、同じ会社で、仕事ぶりを知っていて、共通の知り合いもいる瀬戸さんは、失敗した時のダメージが大きすぎる。
香帆は逃げ出すように、スマートフォンの電源ボタンを押して画面を消した。
瀬戸さんは、きっと深い意味なんて込めていない。
「今日、そういえばあいつの誕生日だったな」と思い出し、親切心から送ってくれただけ。
自意識過剰になるのはやめよう。三十三歳にもなって、LINE一通でこんなに右往左往するなんて、それこそ美香に笑われてしまう。
けれど、一度火が灯った疑問は、消えずにくすぶり続けた。
彼はなぜ、今日だったのか。
なぜ、私だったのか。
香帆はベッドに潜り込み、毛布を頭まで被った。
耳元で、さっきよりも少しだけ速くなった心音が響いている。
三十三歳の初日。
静かだった香帆の世界に、瀬戸という名の小さな小石が投げ込まれた。
その波紋がどこまで広がるのか、彼女にはまだ知る由もなかった。




