揺らぐ境界線
翌朝、香帆はいつもより十五分早く家を出た。
三十三歳になって最初の月曜日。選んだのは、淡いグレーのセットアップに、顔色を明るく見せるラベンダー色のボウタイブラウス。鏡の中の自分は、どこからどう見ても「仕事のできる、落ち着いた大人の女性」だ。
けれど、オフィスビルのゲートを潜る瞬間、胃のあたりがキュッと縮まるのを感じた。
(瀬戸さんに会ったら、どんな顔をすればいいんだろう)
結局、昨夜は返信ができなかった。なんて返せば「自意識過剰」だと思われず、かつ「冷たすぎない」正解になるのか、一時間近く下書きを書いては消し、最後には思考がフリーズしてしまったのだ。
自席に着き、PCを立ち上げる。メールのチェック、スケジュールの確認。ルーティンをこなしていくうちに、少しずつ「主任の顔」が戻ってくる。
午前中の会議が終わり、資料を片手にエレベーターホールへ向かった時だった。
「佐野さん」
背後からかけられた声に、香帆の肩がわずかに跳ねた。
振り返ると、そこには営業推進部のIDカードを首から下げた瀬戸が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「……瀬戸さん。おはようございます」
「おはようございます。昨日は夜分にすみませんでした。驚かせちゃいましたよね」
彼はエレベーターのボタンを押し、香帆の隣に並んだ。他の社員も数人いたが、彼は声を潜めることもなく、ごく自然なトーンで続けた。
「誕生日、おめでとうございました。去年、打ち上げの時に免許証がチラッと見えて。僕、数字を覚えるのが得意なんです」
「あ……そうだったんですね。ありがとうございます。わざわざ連絡いただくなんて思ってもみなくて、返信が遅れてしまって」
「いえ、気にしないでください。お忙しいのは分かってますから」
エレベーターが到着し、中に入る。
数人の社員に囲まれた密室で、彼のわずかな柔軟剤の香りが鼻をくすぐる。それは、陽介が使っていた刺激的な香水とは違う、清潔で、どこか安心感を与える匂いだった。
「お祝い、本当にいいんですか? 私、結構飲むタイプですよ」
香帆は冗談めかして言った。これが、彼女が長年かけて作り上げた「隙のない社交性」だ。
「ぜひ。僕も佐野さんとゆっくり話してみたいと思ってたんです。もしよろしければ、今週の金曜日なんていかがですか?」
金曜日。
いつもなら結衣や美香と集まる日。
けれど、香帆の口は、脳がブレーキをかけるよりも先に動いていた。
「……はい。ありがとうございます。楽しみにしています」
自分の声が、少しだけ上ずったような気がした。
金曜日の十九時。銀座の裏通りにある、看板のない和食屋。
瀬戸が予約してくれた店は、白木のカウンターが美しい、大人の隠れ家のような場所だった。
「お疲れさまです。乾杯」
薄いクリスタルのグラスに注がれた日本酒が、照明を受けて真珠のように輝く。
最初は、仕事の話だった。進行中のプロジェクトの裏話や、共通の知人の噂話。
瀬戸の話は理知的で、かつユーモアに富んでいた。彼は決して自分の意見を押し付けず、香帆の話を「それは面白い視点ですね」と、丁寧に拾い上げてくれる。
「瀬戸さんって、聞き上手ですね」
三杯目のお酒が入る頃、香帆は少しだけ肩の力を抜いた。
「仕事柄かもしれません。でも、今日は聞き役に徹するつもりはないですよ。僕も自分のことを知ってほしいと思っているので」
瀬戸はまっすぐ香帆の目を見て言った。その視線には、マッチングアプリの男たちのような「品定め」の冷たさも、かつての陽介のような「所有欲」の熱さもなかった。
ただ、一人の人間として、香帆に興味を持っているという純粋な温かさだけがあった。
「……実は僕、三年前まで結婚を考えていた人がいたんです」
瀬戸が不意に切り出した言葉に、香帆の手が止まった。
「でも、お互いの仕事の価値観がどうしても合わなくて。彼女は、僕に家庭にもっと入ってほしかった。僕は、今のキャリアを捨てられなかった。……平凡な理由ですよね」
それは、香帆が陽介と辿った道と、あまりにも似ていた。
性別は逆でも、抱えていた痛みや、守りたかったものの正体は同じだ。
「平凡なんて……そんなことないです。それは、自分を大切にしようとした結果ですよね」
香帆の言葉に、瀬戸は少しだけ驚いたような顔をし、それから本当に嬉しそうに目を細めた。
「佐野さんなら、そう言ってくれると思っていました」
その瞬間、香帆の中で何かが静かに音を立てて崩れた。
長年、自分を守るために築いてきた分厚い「鎧」。仕事ができる女、独りでも平気な女、過去を振り切ったはずの女。
その境界線が、瀬戸の優しい声によって、ゆっくりと、けれど確実に溶け始めていく。
高望みなんてしていない。
ただ、自分の「普通」を、そのまま受け入れてくれる誰かと、静かにお酒が飲みたかっただけ。
そんなささやかな願いが、今、目の前の男性を通して形になろうとしている。
けれど、同時に恐怖も湧き上がる。
心を開けば、また傷つくかもしれない。
この心地よい時間が、また自分を「あの日」の絶望へ連れて行くのではないか。
「……瀬戸さん」
「はい」
「私、本当はすごく面倒な人間なんです。仕事が一番大事だし、一人の時間がないと死んじゃうし、三年前のことも、まだ完全には消化できていなくて」
言わなくていいことまで、口をついて出てしまう。それは香帆なりの、最後の防衛本能だった。
瀬戸は静かにグラスを置き、香帆を見つめた。
「面倒くさくない人間なんて、いませんよ。……それに、一人の時間を大切にできる人の方が、僕は信頼できます。僕も、そうだから」
店の外では、金曜日の夜を楽しむ人々の喧騒が遠く聞こえる。
けれど、この白木のカウンターの上だけは、別の時間が流れているようだった。
「もう一杯、飲みますか?」
瀬戸の問いに、香帆は小さく頷いた。
境界線が揺らいでいる。
それがどこへ向かうのかはまだ分からない。
けれど、今夜の微熱は、これまで知っていたどの熱よりも、ずっと心地よく、香帆の身体に浸透していった。




