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金曜日の微熱、あるいは「普通」という名の贅沢  作者: 久遠 睦


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11/18

揺らぐ境界線

翌朝、香帆はいつもより十五分早く家を出た。

 三十三歳になって最初の月曜日。選んだのは、淡いグレーのセットアップに、顔色を明るく見せるラベンダー色のボウタイブラウス。鏡の中の自分は、どこからどう見ても「仕事のできる、落ち着いた大人の女性」だ。

 けれど、オフィスビルのゲートを潜る瞬間、胃のあたりがキュッと縮まるのを感じた。

(瀬戸さんに会ったら、どんな顔をすればいいんだろう)

 結局、昨夜は返信ができなかった。なんて返せば「自意識過剰」だと思われず、かつ「冷たすぎない」正解になるのか、一時間近く下書きを書いては消し、最後には思考がフリーズしてしまったのだ。

 自席に着き、PCを立ち上げる。メールのチェック、スケジュールの確認。ルーティンをこなしていくうちに、少しずつ「主任の顔」が戻ってくる。

 午前中の会議が終わり、資料を片手にエレベーターホールへ向かった時だった。

「佐野さん」

 背後からかけられた声に、香帆の肩がわずかに跳ねた。

 振り返ると、そこには営業推進部のIDカードを首から下げた瀬戸が、穏やかな笑みを浮かべて立っていた。

「……瀬戸さん。おはようございます」

「おはようございます。昨日は夜分にすみませんでした。驚かせちゃいましたよね」

 彼はエレベーターのボタンを押し、香帆の隣に並んだ。他の社員も数人いたが、彼は声を潜めることもなく、ごく自然なトーンで続けた。

「誕生日、おめでとうございました。去年、打ち上げの時に免許証がチラッと見えて。僕、数字を覚えるのが得意なんです」

「あ……そうだったんですね。ありがとうございます。わざわざ連絡いただくなんて思ってもみなくて、返信が遅れてしまって」

「いえ、気にしないでください。お忙しいのは分かってますから」

 エレベーターが到着し、中に入る。

 数人の社員に囲まれた密室で、彼のわずかな柔軟剤の香りが鼻をくすぐる。それは、陽介が使っていた刺激的な香水とは違う、清潔で、どこか安心感を与える匂いだった。

「お祝い、本当にいいんですか? 私、結構飲むタイプですよ」

 香帆は冗談めかして言った。これが、彼女が長年かけて作り上げた「隙のない社交性」だ。

「ぜひ。僕も佐野さんとゆっくり話してみたいと思ってたんです。もしよろしければ、今週の金曜日なんていかがですか?」

 金曜日。

 いつもなら結衣や美香と集まる日。

 けれど、香帆の口は、脳がブレーキをかけるよりも先に動いていた。

「……はい。ありがとうございます。楽しみにしています」

 自分の声が、少しだけ上ずったような気がした。

 金曜日の十九時。銀座の裏通りにある、看板のない和食屋。

 瀬戸が予約してくれた店は、白木のカウンターが美しい、大人の隠れ家のような場所だった。

「お疲れさまです。乾杯」

 薄いクリスタルのグラスに注がれた日本酒が、照明を受けて真珠のように輝く。

 最初は、仕事の話だった。進行中のプロジェクトの裏話や、共通の知人の噂話。

 瀬戸の話は理知的で、かつユーモアに富んでいた。彼は決して自分の意見を押し付けず、香帆の話を「それは面白い視点ですね」と、丁寧に拾い上げてくれる。

「瀬戸さんって、聞き上手ですね」

 三杯目のお酒が入る頃、香帆は少しだけ肩の力を抜いた。

「仕事柄かもしれません。でも、今日は聞き役に徹するつもりはないですよ。僕も自分のことを知ってほしいと思っているので」

 瀬戸はまっすぐ香帆の目を見て言った。その視線には、マッチングアプリの男たちのような「品定め」の冷たさも、かつての陽介のような「所有欲」の熱さもなかった。

 ただ、一人の人間として、香帆に興味を持っているという純粋な温かさだけがあった。

「……実は僕、三年前まで結婚を考えていた人がいたんです」

 瀬戸が不意に切り出した言葉に、香帆の手が止まった。

「でも、お互いの仕事の価値観がどうしても合わなくて。彼女は、僕に家庭にもっと入ってほしかった。僕は、今のキャリアを捨てられなかった。……平凡な理由ですよね」

 それは、香帆が陽介と辿った道と、あまりにも似ていた。

 性別は逆でも、抱えていた痛みや、守りたかったものの正体は同じだ。

「平凡なんて……そんなことないです。それは、自分を大切にしようとした結果ですよね」

 香帆の言葉に、瀬戸は少しだけ驚いたような顔をし、それから本当に嬉しそうに目を細めた。

「佐野さんなら、そう言ってくれると思っていました」

 その瞬間、香帆の中で何かが静かに音を立てて崩れた。

 長年、自分を守るために築いてきた分厚い「鎧」。仕事ができる女、独りでも平気な女、過去を振り切ったはずの女。

 その境界線が、瀬戸の優しい声によって、ゆっくりと、けれど確実に溶け始めていく。

 高望みなんてしていない。

 ただ、自分の「普通」を、そのまま受け入れてくれる誰かと、静かにお酒が飲みたかっただけ。

 そんなささやかな願いが、今、目の前の男性を通して形になろうとしている。

 けれど、同時に恐怖も湧き上がる。

 心を開けば、また傷つくかもしれない。

 この心地よい時間が、また自分を「あの日」の絶望へ連れて行くのではないか。

「……瀬戸さん」

「はい」

「私、本当はすごく面倒な人間なんです。仕事が一番大事だし、一人の時間がないと死んじゃうし、三年前のことも、まだ完全には消化できていなくて」

 言わなくていいことまで、口をついて出てしまう。それは香帆なりの、最後の防衛本能だった。

 瀬戸は静かにグラスを置き、香帆を見つめた。

「面倒くさくない人間なんて、いませんよ。……それに、一人の時間を大切にできる人の方が、僕は信頼できます。僕も、そうだから」

 店の外では、金曜日の夜を楽しむ人々の喧騒が遠く聞こえる。

 けれど、この白木のカウンターの上だけは、別の時間が流れているようだった。

「もう一杯、飲みますか?」

 瀬戸の問いに、香帆は小さく頷いた。

 境界線が揺らいでいる。

 それがどこへ向かうのかはまだ分からない。

 けれど、今夜の微熱は、これまで知っていたどの熱よりも、ずっと心地よく、香帆の身体に浸透していった。


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