揺らぐ境界線(後半)
お猪口に残った最後の一滴を飲み干すと、心地よい酔いが思考の端々をほどいていく。
香帆は、ずっと喉元まで出かかっていた問いを、意を決して口にした。
「……瀬戸さん。ずっと、聞きたかったことがあって」
「何でも聞いてください。僕も今日は、隠し事はしないつもりなので」
瀬戸は徳利を傾け、香帆のグラスに透き通った液体を満たした。
「どうして、私だったんですか?」
「え?」
「社内には、もっと若くて可愛い子もたくさんいるじゃないですか。素直で、仕事の相談を口実に誘いやすそうな子も。……私なんて、隙はないし、可愛げもないし、三回に一回は厳しい顔をしてPCに向かってるような女ですよ」
自嘲気味な響きにならないよう気をつけたつもりだったが、言葉の端々に、マッチングアプリで味わった「市場価値」への卑屈さが混じってしまう。
瀬戸は、少し意外そうに目を丸くした後、クスクスと喉を鳴らして笑った。
「佐野さん、自分のこと、そんなふうに思ってたんですか?」
「……笑わないでください。本気です。私、瀬戸さんからメッセージが来た時、驚きすぎて自分の誕生日が社内の共有カレンダーに漏れてるのかと思って、設定を確認しちゃったくらいなんです」
香帆は苦笑しながら、自分の不器用さを告白した。
「正直に言うとね、ずっと前から、いいなと思って見ていたんです」
瀬戸の言葉に、香帆の指先がピクリと震えた。
「去年のプロジェクトの時だけじゃないですよ。フロアですれ違う時、エレベーターで一緒になる時。佐野さんはいつも、背筋がスッと伸びていて、自分の足でちゃんと立っている感じがした。でも、時々、会議が終わった後のふとした瞬間に、寂しそうな……なんて言ったらいいのかな、どこか遠くを見ているような顔をすることがあって」
瀬戸は、香帆の目をまっすぐに見つめた。
「その顔を見るたびに、この人はどんな音楽を聴いて、どんなことに笑うんだろうって、ずっと気になっていたんです。可愛い子なら他にもいるかもしれないけれど、僕が知りたかったのは、『佐野香帆』っていう人間なんです」
心臓の奥が、熱い塊に押しつぶされそうになる。
ただのスペックや、年齢や、役割ではなく、誰も見ていないと思っていた「自分」を、彼は見つけていたのだ。
「私……三年前、結婚するはずだった人と、本当にボロボロになって別れたんです」
香帆は、堰を切ったように話し始めた。
「相手の理想とする『普通』に合わせられなくて。大好きな仕事も、自分自身の生き方も、全部否定されたような気がして、怖くなって逃げ出した。それ以来、誰かと深く関わることが怖くて、自分に高い壁を築いて生きてきたんです」
陽介との過去。消せなかった連絡先。週末の孤独を「自由」と言い換えて自分を騙してきたこと。
これまで親友の結衣や美香にしか見せられなかった心の澱を、出会って数時間の男性の前に、さらけ出していた。
「だから、瀬戸さんに誘われた時、嬉しいよりも先に『怖い』って思っちゃった。また同じように、誰かをがっかりさせたり、自分が削られたりするんじゃないかって」
瀬戸は、香帆の話を最後まで静かに聞いていた。
そして、テーブルの上に置かれた香帆の手に、そっと自分の手を重ねた。指先から、熱すぎない、穏やかな体温が伝わってくる。
「壁があるなら、無理に壊さなくてもいい。僕も同じような壁を持ってますから。……でも、その壁の隙間から、たまにこうやって美味しいお酒を飲んだり、本音を漏らしたりするのは、悪いことじゃないと思いませんか?」
その言葉は、香帆が自分自身にかけていた呪いを、ゆっくりと解いていくようだった。
完璧でなくていい。
三年前の亡霊を引きずったままでもいい。
「瀬戸さんにとって、私は……どんな存在に見えてましたか?」
香帆が震える声で尋ねると、彼は優しく微笑んだ。
「憧れであり、放っておけない同僚。……そして今は、もっと深く知りたいと思っている、魅力的な一人の女性です」
白木のカウンターの上に流れる時間は、もう「同僚」としてのそれではなくなっていた。
店を出ると、銀座の夜風が火照った頬を撫でた。
「また、誘ってもいいですか?」
駅の改札前で、瀬戸が足を止めて言った。
香帆は、今度は迷わなかった。
「……はい。私からも、連絡させてください」
帰り道の電車の中。窓ガラスに映る自分の顔は、今朝とは少しだけ違って見えた。
三十三歳の初めの一週間。
閉じ込めていた心が、春の雪解けのように、少しずつ動き始めていた。




