本音のアルコール
四月に入り、夜の空気には湿り気を帯びた花の匂いが混じるようになった。
いつものダイニングバー。けれど、今夜のテーブルに並んでいるのは、いつもの生ビール三つではなかった。
「……えっ、結衣。お酒、いいの?」
香帆が驚いて声を上げると、結衣は少し照れくさそうに、運ばれてきたジンジャーエールのグラスを両手で包んだ。
「うん。実はね……お腹に赤ちゃんができたみたい。今、二ヶ月」
一瞬、テーブルに静寂が訪れた。続いて、美香が「ええっ!」と声を上げ、香帆は言葉を失ったまま結衣を見つめた。
三十三歳の春。ついに、三人の輪の中に「母親」という新しい役割が入り込んできたのだ。
「おめでとう、結衣……! すごい、本当によかったね」
香帆は心からの祝福を口にした。けれど、その喜びのすぐ裏側で、三人のバランスが決定的に変わってしまうことへの予感が、小さな刺となって胸を突いた。
「ありがとう。でもね、正直、不安の方が大きいの。旦那は喜んでくれてるけど、仕事はどうしようとか、今の生活が変わっちゃうのが怖かったりして……」
結衣の顔には、これまでにない、柔らかくもどこか覚悟の混じった影が差していた。
「……いいわね、結衣は。守るべきものが明確で」
美香が、投げやりにカシスソーダを煽った。彼女の横顔には、いつもの華やかさが欠けていた。
「美香? どうしたの、今日元気ないじゃない」
「……もう、嫌になっちゃったのよ。恋愛も、男も、自分をアップデートし続けることも」
美香は、バッグからスマートフォンを取り出し、画面を乱暴に伏せた。
「先週までいい感じだと思ってた男、結局ただの遊び目的だったわ。奥さんがいるわけじゃないけど、あっちこっちで『いい顔』して、私の年齢を知った途端、なんとなくフェードアウト。……私たち、あと何回、この不毛な確認作業を繰り返さなきゃいけないの?」
美香の瞳には、怒りよりも深い疲労が滲んでいた。
「努力すれば仕事は報われる。でも、恋愛は努力すればするほど空回りして、自分が惨めになっていく気がする。……香帆、あんたはどうなのよ。瀬戸さんって人とは」
矛先を向けられ、香帆は少し躊躇してから、先日の銀座での夜のことを話し始めた。
彼が誕生日を覚えていたこと。三年前の傷を共有したこと。そして、「壁を壊さなくていい」と言ってくれたこと。
「……彼、そう言ってくれたんだ」
結衣が、慈しむような目で香帆を見た。
「素敵じゃない。香帆の『普通』を、そのまま受け止めてくれる人、やっと現れたのかもね」
「わかんないよ。まだ一回会っただけだし……」
香帆はそう否定しながらも、自分の頬が少し熱くなるのを感じていた。
でも、今のこの場で、自分の小さな「予感」を語ることは、どん底にいる美香を追い詰めることになるのではないか。そんな遠慮が、言葉を鈍らせる。
「……いいわね。香帆はこれから『始まる』かもしれない時期で、結衣は『次のステージ』へ。私だけ、泥沼の中で足踏みしてるみたい」
美香の声が震えた。
「美香、そんなこと……」
「わかってるわよ! 自分の僻みだってことくらい。でもね、三十二から三十三になるこの一年って、本当に残酷なのよ。結衣が母親になったら、もう今みたいに夜中に集まって愚痴を言い合うこともできなくなる。香帆に彼氏ができたら、週末の予定は私以外で埋まっていく。……私は、誰の優先順位の一番にもなれないまま、こうして歳をとっていくんだわ」
美香の言葉は、三人の心に共通して存在する「孤独への恐怖」を、容赦なく暴き出した。
友情は、確かにそこにある。
けれど、それぞれが歩み出す道が分かれ始めた時、隣に並んでいたはずの肩が、ふと遠くなる。
「……美香」
香帆は、美香の冷たくなった手を握った。
「結衣のステージが変わっても、私に誰かができても、『私たち』が変わる必要はないよ。……って、綺麗事かな」
「……綺麗事ね。でも、あんたにそう言われると、少しだけ救われるわ」
美香は自嘲気味に笑い、目元に溜まった涙を指先で拭った。
結衣の妊娠、美香の絶望、そして香帆の微かな希望。
かつては同じ色をしていた三人の時間が、今はそれぞれに違う色彩を帯びて、激しく混ざり合おうとしている。
お会計を済ませ、店を出る。
「結衣、身体大事にするんだよ」
「うん。美香も、あんまり自分を追い込まないで」
「香帆、瀬戸さんとのこと、次までにちゃんと『進捗』作っておきなさいよ」
いつもの別れ際。けれど、改札へ向かう三人の背中は、これまでよりも少しだけ、個々の人生という重みを背負って、独り立ちしているように見えた。
香帆は一人、ホームで電車を待った。
スマートフォンが震える。
『今夜も仕事、お疲れさまです。明日のランチ、もしよかったら社食で一緒にどうですか? 瀬戸』
そのメッセージを見た瞬間、先ほどまでの胸のざわつきが、不思議と静まっていくのを感じた。
結衣が選んだ道も、美香が彷徨っている闇も、そして自分が踏み出そうとしているこの一歩も。
すべては、三十三歳の私たちが生きているという、確かな証なのだ。
香帆は「楽しみにしてます」と短く返信し、夜の街を貫く列車の光を見つめた。




