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金曜日の微熱、あるいは「普通」という名の贅沢  作者: 久遠 睦


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本音のアルコール(後半)

深夜、静まり返った自室。

 香帆は、脱ぎ捨てたアクセサリーをトレイに置く乾いた音を聞きながら、大きな溜息をついた。今夜の美香の涙と、結衣の静かな微笑。その両極端な感情が、まだ胸の中で渦巻いている。

 お湯を沸かそうとキッチンに向かった時、スマートフォンのバイブ音が静寂を破った。

 画面には「結衣」の名前。

「……もしもし、結衣? どうしたの、こんな時間に。身体、大丈夫?」

『ごめんね、香帆。寝ようと思ったんだけど、なんだか落ち着かなくて』

 スピーカーから聞こえる結衣の声は、先ほど店で聞いた時よりもずっと、いつもの、落ち着いたトーンに戻っていた。

『さっきはごめんね。私の妊娠のことで、せっかくの女子会の空気をあんなふうにしちゃって。……美香の前では、あまり手放しで喜ぶようなことは言えないな、って思っちゃってさ』

「そんなことないよ。結衣は何も悪くない。……美香も、ただ少し疲れてるだけだと思う」

『……ねえ、香帆。美香のこと、心配だね』

 結衣の言葉に、香帆は頷いた。電話越しには見えないはずなのに、二人の間に共通の、胸を締め付けられるような痛みが流れる。

「うん。美香は私たちの中で一番華やかで、一番強気に見えるけど……実は、一番脆いのかもしれない。自分の価値を、他人の目や『選ばれること』でしか測れない場所に、自分を追い込んじゃってるから」

『そうなんだよね。あの子、鎧を脱ぐのが誰よりも下手だから。あんなふうに剥き出しの感情をぶつけてくるなんて、本当に限界なんだと思う。……香帆、私たちに何ができるかな』

「……今は、変わらずに隣にいることしかできないよ。結衣のライフステージが変わっても、私に新しい出会いがあっても、私たちは美香を一人にしない。それを言葉じゃなくて、ずっと続くこの空気で伝えていくしかないんじゃないかな」

 電話の向こうで、結衣が小さく鼻をすする音が聞こえた。

『そうだね。……私ね、赤ちゃんができたって分かった時、もちろん嬉しかったけど、真っ先に二人の顔が浮かんだの。この報告をすることで、二人の場所が遠くなっちゃったらどうしようって。それが一番怖かった』

「結衣……」

『自分の幸せも、これからの家族も、もちろん大事。でもね、香帆、私にとって二人は、それと同じくらい、人生に無くてはならないものなんだよ。……三十二、三十三。これからもっとバラバラな人生になるかもしれない。でも、この三人の糸だけは、絶対に切らしたくないの』

 結衣の切実な声が、香帆の心の奥にある不安を溶かしていく。

 

 変化していくことは、失うことではない。

 誰かが母親になり、誰かが恋をして、誰かが闇の中にいても、交わした言葉の重みや、一緒に飲んだお酒の味は変わらない。

「大丈夫だよ、結衣。私たちは、これからも金曜日の夜に、こうやってお互いの本音をぶつけ合っていくんだから。……美香が元気になったら、今度は三人で、ノンアルコールの美味しい店、探そうよ」

『……うん。ありがとう、香帆。おやすみなさい』

 通話を切り、香帆は冷めたお湯をもう一度沸かし直した。

 

 美香は今頃、一人で泣いているだろうか。それとも、また強気な顔を作って、誰かに返信しているだろうか。

 そして瀬戸さんは、明日、どんな顔をして私を迎えてくれるだろう。

 

 三人の友情という、揺るぎない地盤。

 そこにある安心感があったからこそ、自分は瀬戸さんという新しい世界へ、一歩を踏み出そうと思えたのだと、香帆は改めて気づいた。

 

 幸せの形は、一つではない。

 そして、その形が変わるたびに、私たちは何度でも、この場所で「普通」を確認し合うのだろう。

 

 香帆は、母から届いたお米を一合、丁寧に研ぎ始めた。

 明日の朝、美味しいご飯を食べて、私は私の「今日」を生きる。

 

 窓の外、都会の夜が、少しずつ明日に向かって色を変えていた。


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