踏み出すための深呼吸
火曜日の昼下がり。社内食堂の喧騒は、ピークを過ぎて少しだけ落ち着きを取り戻していた。
香帆は、トレイに乗せた日替わり定食の「鯖のみぞれ煮」を運びながら、奥の窓際席に視線を走らせた。そこには、すでに席を確保して待っている瀬戸の姿があった。
「お待たせしました、瀬戸さん」
「いえ、僕も今来たところです。……今日は一段と『主任』の顔をしてましたね、午前中。会議室から出てくる時、少し怖いくらいでしたよ」
瀬戸が茶目っ気たっぷりに笑う。
「やめてください。必死なだけですよ、月初の数字を合わせるのに」
向かい合って座ると、プラスチックの仕切り越しでも、彼の穏やかな温度が伝わってくる。
社内という公共の場。周囲には同じバッジをつけた社員たちが溢れている。いつもの香帆なら、「誰に見られているかわからない」という防衛本能が働いて、もっと事務的な会話に終始したはずだ。けれど、昨夜の結衣との電話や、美香の涙を思い出すと、不思議と周囲の目がどうでもよくなっていた。
誰かにどう思われるかより、今、目の前にいる人と何を話すか。
そんな当たり前のことが、三十三歳になってようやく、少しずつ腑に落ちてきている。
「……あの、瀬戸さん。今週末のことなんですけど」
香帆は割り箸を割りながら、切り出した。
「はい。何か行きたいところ、見つかりましたか?」
「銀座のようなカチッとした場所もいいんですけど……もしよかったら、少し歩きませんか? 新宿御苑とか。あそこ、今の時期は八重桜が綺麗だと思うんです。そのあと、近くのカフェでゆっくりできたらなって」
瀬戸は、鯖に箸を伸ばそうとした手を止め、嬉しそうに目を細めた。
「いいですね。僕も、そういう『何でもない過ごし方』が一番好きです。じゃあ、土曜日の正午に、新宿門で」
約束が交わされた瞬間、香帆の胸の中にあった、重い扉が少しだけ開いたような気がした。
土曜日。予報通りの快晴。
新宿御苑の芝生の上には、春の光を惜しむように多くの人々が集まっていた。家族連れの笑い声、バドミントンをするカップル、一人で読書をする老人。
そこには、三年前の香帆が「私にはもう関係のない世界」だと決めつけていた、穏やかな日常が広がっていた。
「……綺麗ですね」
瀬戸が、淡いピンク色の花びらが舞う空を見上げて言った。
「はい。毎年来ているはずなのに、誰かと一緒に見るのは、ずいぶん久しぶりな気がします」
隣を歩く瀬戸の歩幅は、香帆に合わせてゆっくりとしている。
沈黙が怖くない。何か面白いことを言わなければと焦る必要もない。ただ、並んで歩いているだけで、自分の呼吸が深くなっていくのがわかった。
公園を出て、千駄ヶ谷方面へ少し歩いたところにある静かなカフェに入った。
テラス席に座り、運ばれてきたアイスコーヒーを一口飲む。
「瀬戸さん。私、今日ここに来る前に、一つ決めてきたことがあるんです」
香帆は、バッグの中からスマートフォンを取り出し、テーブルの上に置いた。
「なんですか? 改まって」
「三年間、ずっと消せなかった連絡先があるんです。……別れた人の。もう未練なんてないつもりだったけど、それを持っていることが、私の『逃げ道』になっていたんだと思う」
瀬戸は、何も言わずに香帆の言葉を待ってくれた。
「でも、瀬戸さんと話していると、その逃げ道がもう必要ないって思えるんです。過去の亡霊を連れたまま、瀬戸さんの隣にいるのは、自分にも、瀬戸さんにも失礼だなって」
香帆は画面を操作し、連絡先リストを表示させた。
『陽介』。
かつては愛の象徴であり、今は呪いのように自分を縛っていたその名前に、迷わず指を置く。
『この連絡先を削除しますか?』
その問いに、「はい」をタップする。
一瞬だった。
三年間、どれだけ勇気を出してもできなかったことが、たった一秒で終わった。
画面からその名前が消えた瞬間、何かが軽くなったというよりも、視界のピントが急に合ったような感覚があった。
「……お疲れさまでした、香帆さん」
瀬戸が、初めて名前で呼んでくれた。
「ありがとうございます。……なんだか、やっと三十三歳になれた気がします」
香帆はスマートフォンをバッグの奥深くにしまい、瀬戸に向き直った。
「瀬戸さん。私、まだ不器用だし、仕事でピリピリすることもあるし、美香たちと朝まで飲んでダメ人間になることもありますけど……それでもいいですか?」
瀬戸は、香帆の手を優しく、けれどしっかりと握った。
「そういう香帆さんの全部が、僕には魅力的に見えてますよ。……ゆっくり、始めていきましょう」
五月の風が、テラスの木々を揺らしていく。
高望みなんて、もういらない。
ただ、この温かな手を離さないように。
香帆は深く、深く深呼吸をした。新しい季節の匂いが、身体の隅々まで満ちていった。




