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金曜日の微熱、あるいは「普通」という名の贅沢  作者: 久遠 睦


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踏み出すための深呼吸(後半)

瀬戸と別れ、新宿駅の雑踏を一人歩く。

 バッグの中のスマートフォンは、先ほどまでそこにあったはずの「三年前の亡霊」を失い、物理的な重さは変わらないはずなのに、驚くほど軽く感じられた。

 新宿御苑で瀬戸が握ってくれた手の温もりが、まだ指先に残っている。

 新しい一歩を踏み出した。その高揚感に浸っていたかったが、駅のホームで電車を待つ間、香帆の脳裏をよぎったのは、昨夜の美香の泣き顔だった。

(私は、自分の逃げ道を塞いだ。でも、美香はまだ……)

 美香は自分を「ショーケースの商品」だと言い、価値が下がることに怯えていた。その孤独を、私は自分の幸せの影に隠してはいけない気がした。

 香帆は、気がつくと美香にメッセージを送っていた。

『今から会える? 飲み直すんじゃなくて、ただ、話したくて』

 数分後、『散らかってるけど、いいよ』と短い返信が届いた。

 美香のマンションは、代々木にあるデザイナーズ物件だ。

 いつもなら完璧に整えられているはずの部屋は、脱ぎっぱなしの服や、飲みかけのワインボトルがテーブルに置かれ、彼女の心の荒れ模様を映し出していた。

「……ごめん。ひどい顔でしょ」

 スウェット姿の美香が、力なく笑う。香帆は何も言わずに、彼女の隣に座った。

 コンビニで買ってきた温かいほうじ茶を二つのマグカップに注ぐ。

「私ね、今日、陽介の連絡先を消したんだ」

 香帆の言葉に、美香が顔を上げた。

「……あんなに執着してたのに?」

「うん。瀬戸さんと一緒にいて、気づいたの。私は『戻れない過去』を言い訳にして、今をサボってただけなんだって」

 そこから、香帆は朝まで、美香と語り合った。

 三十二歳から三十三歳になることの恐怖。女性としての賞味期限を突きつけられるような社会の視線。結衣が「母親」になることで、自分たちだけが取り残されるような焦燥感。

 これまで「強気な自立した女」を演じるために封印してきた言葉を、二人は一つずつ、丁寧に解いていった。

 窓の外が、薄っすらと白み始めた頃。

 美香が、ふと真剣な顔をして香帆を見つめた。

「ねえ、香帆。私、ずっと言えなかったことがあるの」

「何?」

「私……今の会社、辞めることにした」

 香帆は息を呑んだ。広告代理店でのキャリアは、美香のアイデンティティそのものだと思っていたからだ。

「……どうして?」

「私、誰かに『選ばれる』ことに必死になりすぎて、自分が何を選びたいのか忘れてた。でもね、先月、昔からずっとやりたかった『香りのデザイン』のスクールに、こっそり願書を出してたの。それが昨日、合格したのよ」

 美香の瞳に、久しぶりに力強い光が宿った。

「秋から、フランスに一年、留学する。……これ、三人の友情にとっても、素晴らしいことだと思わない?」

 香帆は驚き、そして次の瞬間、大粒の涙が溢れ出した。

 美香が選んだのは、誰かに愛されるための自分磨きではなく、自分が自分を愛するための「冒険」だった。

「素晴らしいよ、美香……! 最高に格好いい」

「ふふ、でしょ? 私ね、気づいたの。私は商品じゃない。自分の人生のクリエイターなんだって。私がフランスで素敵な香料を見つけて、いつか結衣の赤ちゃんが安心して使えるような、優しい香りのブランドを作りたい。……それが私の、新しい『普通』の目標」

 朝焼けが、乱雑な部屋をオレンジ色に染めていく。

 美香の決断は、香帆にとっても、そしてこれから母になる結衣にとっても、大きな希望の光だった。

 

 三十二歳と三十三歳。

 私たちは、ただ「誰かの隣」を探していたのではない。

 自分の足でどこまで行けるのか、その自由を分かち合える仲間を探していたのだ。

「……じゃあ、結衣への報告は、三人で集まった時に、盛大にやろうね」

「もちろん。あの子、びっくりして産気づいちゃうかも」

 二人は、冷めたほうじ茶で乾杯した。

 眠気よりも、未来への期待が勝る、特別な朝だった。


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