新しい夜に乾杯(前半)
恵比寿の駅前は、秋の深まりと共にその色彩を変えていた。
去年の今頃、私はどんな顔をしてこの街を歩いていただろう。たった一年前のことなのに、当時の自分を思い出すと、まるで霧の向こう側にいる別人を眺めているような不思議な感覚に陥る。
三十二歳から三十三歳へ。数字が一つ増えるだけで、世界がこれほどまでに違って見えるなんて思わなかった。
いつものダイニングバー『ル・サンク』の扉を開ける。
カウベルの乾いた音が店内に響き、ガーリックの香ばしい匂いと、少し騒がしいジャズの旋律が私を迎え入れる。ここは私たちの「聖域」だった。誰の目も気にせず、毒を吐き、傷を舐め合い、泡のように消えていく夢を語り合った場所。
「香帆、こっち!」
一番奥の席で手を振る美香を見て、私は思わず息を呑んだ。
来週、フランスへ旅立つ彼女は、以前のような「武装」を解いていた。
かつては、どこのブランドか一目でわかるような服を着て、一ミリの隙もないメイクで自分を飾り立てていた彼女。それは「誰かに選ばれるための努力」という名の鎧だったのだと、今の彼女を見て気づかされる。
今の美香は、上質なリネンのシャツの袖を無造作に捲り、髪もラフにまとめているだけだ。けれど、その瞳には、マッチングアプリの画面を睨みつけていた頃にはなかった、静かで強い光が宿っていた。
「……美香、なんだかすごく、いい顔してる」
「あはは、そう? メイクの手を抜いてるだけよ。フランスに行ったら、誰も私の年齢なんて気にしないだろうしね」
美香は自嘲気味に笑ったけれど、その声にトゲはなかった。
「私ね、日本にいた時は『三十三歳の独身女性』っていう透明な檻の中に閉じ込められてる気分だった。でも、会社を辞めて、自分のやりたいことだけをトランクに詰めたら、その檻の鍵は最初から開いてたんだって気づいたの」
そんな美香の言葉を噛みしめていると、店の扉が再び開き、少し慌てた様子の結衣がやってきた。
三ヶ月前に出産を終えた彼女は、以前より少しだけ丸みを帯びた肩に、大きめのマザーズバッグを下げている。
「ごめん! ギリギリまで寝かしつけに手こずっちゃって。……ああ、この匂い、落ち着く!」
結衣が席に着くなり、深く息を吐き出す。
「大丈夫? 無理してない?」
「ううん、今日は旦那が『たまには羽を伸ばしてこい』って送り出してくれたの。……でもね、不思議。あんなに一人の時間が欲しいって思ってたのに、いざこうして離れると、あの子の匂いが恋しくなっちゃうんだよね」
結衣の指先には、ネイルを塗る余裕もないけれど、そこには「誰かに必要とされている」という確かな厚みがあった。
一年前の私たちは、同じ方向を見て、同じ穴に落ちないように肩を組んでいた。
でも今は、三人がそれぞれ違う方向を向き、違う景色を見ている。
結衣は家庭という名の、ままならないけれど愛おしい現実を。
美香は夢という名の、孤独だけれど自由な航路を。
そして私は――。
「……で、香帆。瀬戸さんとはどうなのよ。今日、彼は?」
美香が少しいたずらっぽく尋ねる。
「うん。……昨日ね、初めて喧嘩したんだ。仕事が忙しくて、つい私がピリピリしちゃって」
私がそう言うと、二人は意外そうな顔をした。
「でもね、瀬戸さんは怒るんじゃなくて、『そういう時もあるよ。落ち着いたら、一緒に美味しいコーヒーでも飲もう』って言ってくれた。……陽介の時は、そんな一言が言えなくて、お互いを責めて、壊してしまったのに」
高望みなんて、していなかった。
ただ、自分の「欠けた部分」を、そのまま隣に置いておける関係。
私が完璧な「主任」じゃなくても、機嫌が悪くても、それでも「明日も一緒にいたい」と思える、そんな当たり前のことが、何よりも贅沢なのだと私は知った。
「……じゃあ、乾杯しましょうか」
美香がグラスを持ち上げる。
私のビール、美香のワイン、そして結衣のノンアルコールカクテル。
「美香の新しい冒険と、結衣の新しい命と……それから、私たちの『新しい普通』に」
三つのグラスが重なり、澄んだ音が店内の喧騒に溶けていった。
窓の外、恵比寿の夜は更けていく。
かつての私たちは、この泡の中に寂しさを溶かしていたけれど。
今夜の泡は、明日への一歩を後押ししてくれる、祝福の味がした。




