新しい夜に乾杯(後半)
宴の終わりを告げるように、テーブルの上に置かれた最後の一皿が空になった。
三人の間には、心地よい沈黙が流れている。それは、かつての「沈黙が怖くて、無理に言葉を詰め込んでいた夜」とは、決定的に違っていた。
「……ねえ、次にこうして集まれるのは、いつかな」
美香がグラスの底に残った雫を見つめながら、ぽつりと言った。
来週、彼女はトランク一つでフランスへ向かう。SNSでいつでも繋がれる時代だ。ビデオ通話だってできる。けれど、この恵比寿の空気の中で、膝を突き合わせてお酒を飲む時間は、しばらくお預けになる。
「美香が向こうの生活に慣れたら、私、赤ちゃん連れて遊びに行くから。……それまでに、フランス語の絵本、一冊くらい読めるようにしとくね」
結衣の優しい言葉に、美香が鼻を赤くして笑った。
三年前、私が陽介と別れてボロボロだった夜、真っ先に駆けつけてくれたのはこの二人だった。そして今、一人は母親になり、一人は夢を追い、私は新しい隣人を見つけた。
「普通」という名の形のないゴールを探して彷徨っていた私たちは、いつの間にか、自分だけの「特別」をそれぞれの胸に抱えている。
街の灯りと、約束の場所
会計を済ませ、夜の冷気に包まれた外へ出る。
恵比寿の駅前は、家路を急ぐ人々と、これから夜を始める人々で溢れ返っていた。
「じゃあね。……本当に行っちゃうんだね、美香」
私がそう言うと、美香は少し照れくさそうに、けれど力強く私と結衣を抱きしめた。
香水の匂いではない、彼女自身の情熱のような熱が伝わってくる。
「寂しくなったら、時差なんて気にせず連絡しなさいよ。……香帆も、瀬戸さんと喧嘩したらすぐ言いなさい。フランスから呪いの香水送るから」
「やめてよ。……美香、自分のこと、もう『商品』なんて言っちゃダメだよ」
「わかってる。私は、私の人生の最高傑作になるわ」
結衣も、少し潤んだ瞳で頷いた。
「美香、いってらっしゃい。……香帆、私たちも頑張ろうね」
改札へ向かう二人の背中を見送る。
結衣は家族が待つ家へと続く電車へ。美香は、世界へと続く滑走路へと向かう。
バラバラの方向に進んでいく二人の姿が、夜の雑踏に溶けて見えなくなるまで、私はそこに立ち尽くしていた。
切ない。けれど、この切なさは、私たちが誠実に生きてきた証だ。
三十三歳。私たちはもう、手を繋いでいなければ歩けない子供ではない。けれど、どこまで遠くへ行っても、帰ってくる場所があることを知っている大人になったのだ。
迎えに来た光
「……香帆さん」
聞き慣れた、穏やかな声に振り返る。
ロータリーの端、ハザードランプを点滅させて停まっている白い車のそばに、瀬戸さんが立っていた。
「ごめん、待った?」
「いいえ、今来たところです。……いい顔をしてますね。楽しい夜でしたか?」
瀬戸さんは、私の少し赤い目元に気づいているはずなのに、あえてそれには触れず、優しく車のドアを開けてくれた。
「うん。……世界で一番、贅沢な夜だった」
助手席に座り、シートベルトを締める。
車内には、彼がいつも選ぶ落ち着いたジャズが流れている。
三年前の別れの後、私は「もう誰も、私のこの孤独を理解してくれない」と絶望していた。高望みなんてしていない、ただ普通になりたいだけだ、と自分を呪っていた。
けれど、今ならわかる。
あの三年の空白があったからこそ、私は瀬戸さんの差し出す手の温かさに気づけたのだ。
そして、結衣と美香という、形の変わる愛を共に乗り越えてくれる友の尊さを知ったのだ。
「明日、お休みですよね。少し遠出でもしましょうか。香帆さんの好きな、あの岬まで」
「……いいの? 瀬戸さんだって疲れてるのに」
「香帆さんの隣で運転するのが、僕のリフレッシュですから」
瀬戸さんはそう言って、シフトレバーに置いた手の上に、そっと私の手を重ねた。
希望の明日へ
車は、眠らない街・東京を抜けて、私たちの生活へと向かって走り出す。
窓の外、流れていくビル群の明かりが、宝石を散りばめたように輝いている。
その光の一つひとつに、かつての私のように、誰にも言えない焦燥を抱え、金曜日の微熱に浮かされている女性たちがいるだろう。
「普通」になれない自分を責め、鏡の中の自分に溜息をついている彼女たちに、私は心の中でそっと語りかける。
大丈夫。
夜は必ず明ける。けれど、その暗い夜を共にした友達と、自分を信じ抜いた時間は、決してあなたを裏切らない。
美香の空の上。
結衣の静かな寝室。
そして、私のこの、穏やかな車内。
それぞれの旅立ちがあり、それぞれの人生がある。
けれど、明日の朝、私たちが目覚める時には、今日よりも少しだけ自分を好きになれる、新しい太陽が昇っているはずだ。
「……瀬戸さん」
「はい?」
「ありがとう。私、今、すごく幸せ」
瀬戸さんは何も言わず、ただ私の手を少しだけ強く握り返した。
高望みなんて、もう必要ない。
私の欲しかった「普通」は、この手の中に、そして明日へと続くこの道の上に、確かに存在しているのだから。




