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金曜日の微熱、あるいは「普通」という名の贅沢  作者: 久遠 睦


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8/18

週末の空白、あるいは自由

アプリを消した翌週の土曜日。香帆は、大学時代からの友人たちが集まるバーベキューパーティーに参加していた。

 場所は、多摩川沿いにある開放的な設営サイト。春の気配を孕んだ風が、木々の若葉を揺らしている。

「香帆、こっちこっち! 焼きそば焼けたぞ!」

 トングを片手に声をかけてきたのは、健太だった。彼は大学のサークル仲間で、今は建築関係の仕事をしている。裏表のない性格で、香帆にとっては「異性」というよりは「戦友」に近い存在だ。

「ありがとう、健太。相変わらず手際がいいね」

 香帆は紙コップのビールを手に、彼の隣に立った。

 そこには、結衣や美香はもちろん、すでに家庭を持った者、独身を謳歌している者、男女入り混じった十人ほどの「いつもの顔ぶれ」があった。

 ここには、あのマッチングアプリのような息苦しい品定めはない。

 自分の年収がいくらだとか、結婚後も仕事を続けるかだとか、そんな履歴書のような会話は必要ない。ただ「香帆」として、昔からの冗談を言い合い、肉を頬張り、太陽の下で笑う。

 

(……ああ、やっぱりこれが一番落ち着く)

 アプリでの「商品」としての扱いに傷ついていた心に、友人たちの他愛ない笑い声が染み込んでいく。

 美香は相変わらず、別のグループの男性と楽しげに談笑しており、結衣は子供を連れてきた別の友人の世話を焼いている。

 夕暮れ時、宴もたけなわになった頃。香帆は少し離れた土手に座って、オレンジ色に染まる水面を眺めていた。

 隣に、いつの間にか健太がやってきて腰を下ろす。

「香帆、最近どう? 仕事、忙しいんだろ」

「まあね。でも、こうやってみんなに会えるとリセットされる気がする」

「そうか。……あさって、拓也の結婚報告会、来るだろ?」

 その言葉に、香帆は少しだけ胸を突かれた。

 拓也。このグループの中で、一番「ずっと独身で遊んでいそう」だった男が、ついに年貢を納めるのだという。

「もちろん。……なんか、不思議だよね。あんなにバカやってた私たちが、一人、また一人って『あっち側』へ行っちゃうの」

「『あっち側』か」

 健太は苦笑して、ビールの残りを飲み干した。

「でもさ、いつまでもこうして集まれるわけじゃないんだよな。みんな家庭ができれば、優先順位は変わる。この『自由な空白』みたいな時間も、実はすごく期間限定のものなのかもしれないぜ」

 健太の言葉は、悪意のない真実だった。

 今この瞬間、香帆が感じている「自由」や「心地よさ」は、友人たちの善意と、そして「まだみんなもここにいる」という連帯感によって支えられている。

 けれど、その連帯感は、少しずつ、確実に解け始めているのだ。

 夜、片付けを終えて、駅へと向かう道すがら。

 家族連れやカップルで賑わう電車の中で、香帆はふと、自分の両手が空いていることに気づいた。

 

 友達はいる。

 楽しい時間もある。

 でも、その「楽しい時間」が終わった後、一人の部屋に帰るまでの空白を埋めてくれるものは、何もない。

 

 「自由」という言葉は、裏を返せば「誰からも必要とされていない」という孤独と背中合わせだ。

 どこへ行ってもいい。何をしてもいい。でも、その私の行動を心待ちにし、無事に帰ることを願ってくれる「たった一人の誰か」は、三年前のあの日から、私の世界には存在しない。

 帰宅し、いつものように静かな部屋の明かりを点ける。

 今日撮ったグループ写真をSNSで見返すと、そこには満面の笑みを浮かべる自分がいた。

 幸せそうだ、と自分でも思う。

 でも、写真の端に写り込んだ、自分の小さな影。それが妙に冷たく、心許なく見えて、香帆はすぐに画面を閉じた。

(……この自由は、いつまで続くんだろう。いつまで、耐えられるんだろう)

 このままでいいわけがない。でも、どうすればいいのかも分からない。

 香帆は、ベランダに出て夜の街を見下ろした。

 数え切れないほどの窓の明かり。その一つひとつに、誰かの「生活」があり、誰かの「熱」がある。

 

 三十二歳。

 週末の空白を「自由」と呼んで自分を誤魔化すには、私は少しだけ、大人になりすぎてしまったのかもしれない。

第五章:週末の空白、あるいは自由(後半)

 拓也の結婚報告会は、恵比寿にある天井の高いダイニングバーを貸し切って行われた。

 大学時代の「いつまでも子供でいようぜ」という青臭いスローガンを地で行っていた拓也が、小奇麗なネイビーのジャケットに身を包み、少し照れくさそうに隣の女性を紹介している。

 相手の女性は二十八歳だという。ふんわりとしたベージュのワンピースがよく似合う、春の陽だまりのような、どこか「守ってあげたくなる」空気を持った人だった。

「……なんか、拓也がちゃんとした大人に見えるね」

 隣でシャンパングラスを傾ける美香が、皮肉めいた、けれど少し寂しそうな声を出す。

「本当ね。一番最後にゴールテープを切ると思ってたのに」

 香帆は心からの祝福を口にしながらも、胸の奥に冷たい風が吹き抜けるのを感じていた。

 会場のあちこちで交わされる会話は、いつの間にか様変わりしていた。

 かつては深夜まで遊んだ武勇伝や、仕事の愚痴で盛り上がっていたはずの仲間たちが、今は「家を買うタイミング」や「保育園の入りやすさ」、あるいは「人間ドックの結果」について真剣に語り合っている。

 笑い声は絶えない。友情が変わったわけでもない。

 けれど、香帆は気づいてしまった。このグループという大きな船から、一人、また一人と「家族」という名の小さな救命ボートに乗り換えて、それぞれの目的地へと漕ぎ出していることに。

 

 最後までこの大きな船に残っているのは、自由という名のチケットを握りしめたまま、行き先を見失った自分と、強気な仮面を脱げない美香、そしてあと数人の独身者だけだ。

(自由、か……)

 誰にも縛られず、何にも邪魔されない私の週末。

 それは確かに贅沢で、誇らしいものだと思っていた。けれど、こうして「幸せの形」を具体的に突きつけられると、その自由が、ただの「選ばれなかった時間の蓄積」のように思えてくる。

 パーティーの中盤、トイレに立つふりをして、香帆は一人バルコニーに出た。

 恵比寿の夜景が、無機質な光の粒となって眼下に広がっている。

 バッグの中からスマートフォンを取り出す。

 指先が、無意識に連絡先リストをスクロールした。

 

『陽介』

 三年間、一度も発信ボタンを押せなかった名前。

 今のこの、心細くて、自分が世界の端っこに取り残されたような感覚を、彼なら分かってくれるのではないか。

 「元気?」と、一言送るだけなら。

 ダメもとで連絡してみれば、もしかしたら、止まったままの時計が動き出す奇跡が起きるのではないか。

 液晶の明かりが、香帆の瞳を青白く照らす。

 送信ボタンにかけた指が、かすかに震えた。

「……何やってるんだろ、私」

 ふと、三年前のあの雨の日の記憶が蘇る。

 価値観のズレに悩み、自分を失うことに怯え、泣きながら別れを選んだのは自分だったはずだ。

 あの時、私たちは確かに終わった。それなのに、今の寂しさを埋めるためだけに、過去の亡霊にすがろうとする自分の浅ましさが、情けなくて仕方がなかった。

 三年前から、一歩も進めていなかった。

 アプリで効率的に誰かを探すこともできず、かといって過去を完全に断ち切ることもできない。

 

「まだ、引きずってるんだ……こんなにも」

 香帆はスマートフォンを強く握りしめ、画面を暗転させた。

 連絡先を消す勇気もない。かといって、連絡する資格もない。

 

 バルコニーの扉の向こうから、拓也の幸せそうな笑い声と、仲間たちの拍手が聞こえてくる。

 香帆は大きく深呼吸をし、冷たい夜気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 そして、鏡の前で崩れかけたメイクを直し、再び「完璧な友人」の顔を作って、光あふれる会場へと戻っていった。

 足元のヒールは、先ほどよりもずっと重く、地面に食い込んでいるようだった。

 自由という名の孤独を、これ以上ないほど鮮明に意識しながら。


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