マッチング・ディストピア(後半)
銀座の華やかさを背に地下鉄を降り、駅から自宅までの静かな夜道を歩く。
デートのために新調したヒールが、アスファルトを叩くたびに鈍い音を立てる。足の痛みは、そのまま心の重さに直結しているようだった。
帰宅して部屋の明かりをつけると、昼間と同じ静寂がそこにあった。
バッグを放り出し、ソファに深く沈み込む。ふと手元のスマートフォンを見ると、画面にはマッチングアプリからの通知が途切れることなく並んでいた。
『新しいマッチングがあります!』
『「いいね!」が届きました』
『〇〇さんからメッセージが届いています:佐野さんの笑顔、すごく素敵ですね。癒やされます』
無気力な指先で、それらをぼんやりと眺める。
メッセージの送り主たちは、私の何を知って「素敵」だと言っているのだろう。たった一枚の、光の加減で奇跡的に良く撮れた写真。そこに添えられた、当たり障りのない短い言葉。
きっと私だけではないのだ。彼らは、同じような条件の女性たちに、同じような言葉を投げかけている。
(ああ、私、ショーケースに並んでいる商品なんだ)
銀座のデパートに並ぶ、綺麗にラッピングされた高価なスイーツと同じ。
誰かが自分の好みの味を探して、ラベルの成分表を眺めて、良さそうだと思ったらカゴに入れる。その中身にどんな複雑な感情が詰まっていても、ラベルに書かれた数字や記号がすべてを上書きしてしまう。
その中から誰かと会えたらラッキー、くらいの軽い期待。
虚しい。
そう思った瞬間、画面が切り替わり、美香からの着信を告げた。
今は誰の声も聞きたくない。そう思いながらも、独りの静寂に耐えきれず、通話ボタンをスライドさせた。
「もしもし、香帆? どうだった、例の技術職の男。当たり?」
スピーカーから漏れる美香の声は、いつものように弾んでいて、今の香帆には少し眩しすぎた。
「……ハズレでも当たりでもないよ、美香。ただ、疲れた」
香帆の声に、電話の向こうの美香が少しトーンを落とす。
「え、そんなに酷かったの? プロフィール詐欺?」
「ううん、条件通り。すごく効率的な人だった。でもね、話してて一秒も楽しくなかったの。自分が人間じゃなくて、相手の人生の空欄を埋めるための『妻候補』っていう記号になってる気がして」
香帆は膝を抱え、天井を見つめた。
「美香、私、このアプリ消すわ。もう辞める」
「ちょっと待ってよ、一回会っただけで諦めるのは早すぎない? 数を打たないと……」
「向いてないんだと思う。自分をショーケースに並べて、誰かのチェックリストに合格するのを待つのは、もう限界。誰かに褒められるたびに、中身を無視されてる気がして虚しくなるだけなの」
美香はしばらく黙っていたが、やがて小さく溜息をついた。
「……香帆、真面目すぎるのよ。もっとゲーム感覚で楽しめばいいのに」
「それができれば楽だったんだけどね。私には、もっと泥臭くて、非効率で、でもちゃんと熱がある何かが必要なんだと思う」
電話を切った後、香帆は迷うことなくアプリのアイコンを長押しし、「削除」を選択した。
画面からアイコンが消えると、不思議と呼吸が少しだけ楽になった。
窓の外、都会の夜空には星は見えない。
けれど、誰かが決めた「価値」というラベルを剥がした後の自分は、ひどく頼りなくて、同時に少しだけ自由になれた気がした。
三十二歳。効率の戦場から脱走した私の行く先は、まだどこにも繋がっていないけれど。




