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金曜日の微熱、あるいは「普通」という名の贅沢  作者: 久遠 睦


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マッチング・ディストピア

「いい、香帆。今の時代、待ってるだけで白馬の王子様が来るのは、宝くじの一等に当たるより確率が低いの。自分から網を張らなきゃ」

 週明けのランチタイム、美香は手慣れた手つきで香帆のスマートフォンを操作していた。画面には、カラフルなアイコンが躍るマッチングアプリがインストールされている。

「でも、こういうのって勇気がいるっていうか……。スペックだけで判断されるの、なんか疲れそう」

「スペックこそが誠実さの証よ。無職のイケメンより、年収六百万のフツメン。それが三十代のリアルでしょ?」

 美香の強引な後押しに負け、香帆は渋々プロフィールの入力を始めた。

 写真は、先日のBBQで結衣が撮ってくれた「奇跡の一枚」。仕事中の厳しい顔ではなく、少しだけ肩の力が抜けた笑顔の自分。

 自己紹介文には「仕事はIT系」「趣味は美味しいお酒を飲むこと」「休日は家でゆっくり過ごすことが多いです」。

 当たり障りのない、誰の心も逆撫でしない、平均的な「三十代女性」の像を作り上げていく。

 その日の夜。ベッドの中でアプリを開くと、驚くほどの通知が届いていた。

「いいね!」の嵐。

 しかし、その一人ひとりのプロフィールをスワイプしていく作業は、次第に香帆の心を無機質な砂漠へと変えていった。

 商社勤務、三十五歳。公務員、三十二歳。経営者、四十歳。

 年収、身長、学歴、居住地。

 まるでスーパーの野菜の産地表示を確認するように、男たちを選別していく自分。そして同時に、自分もまた「三十二歳、都内在住、会社員」というラベルを貼られた商品として、誰かの指先一つで右か左かに振り分けられているという現実。

(……これ、何の修行なんだろう)

 そんな中、一人の男性とマッチングした。

 名前は「タカシ」。三十四歳、大手メーカー勤務の技術職。写真は清潔感のある横顔で、メッセージも丁寧だった。

 数回のやり取りを経て、二人は週末の銀座で会うことになった。

 土曜日の昼下がり。銀座の喧騒から少し離れたホテルのラウンジ。

 香帆は、いつもより少しだけ念入りに巻いた髪を気にしながら、彼を待った。

「佐野さんですか?」

 声をかけてきたのは、写真通りの、いや、写真よりも少しだけ疲れた顔をした男性だった。

「初めまして。高橋です」

「初めまして。よろしくお願いします」

 始まったのは、まるで「中途採用の二次面接」のような時間だった。

 仕事の内容、これまでのキャリア、休日の過ごし方、結婚観、子供の希望。

 高橋さんは非常に効率的だった。彼は、自分の人生というパズルに欠けている「妻」というピースを探しに来ているのだということが、痛いほど伝わってきた。

「佐野さんは、結婚しても今の仕事を続けたいんですか?」

「ええ、できる限りは」

「なるほど。最近は共働きが普通ですからね。ただ、僕も出張が多いので、家庭のことはある程度任せられると助かるというか……」

 彼の言葉には、悪意はない。むしろ、最初から条件を提示してくれるのは、美香の言う「誠実さ」なのかもしれない。

 けれど、香帆の心は一向に体温を上げなかった。

 目の前でコーヒーを飲む彼が、何を食べて美味しいと思い、どんな映画を見て涙を流し、何に憤るのか。そんな「人間としての手触り」が、履歴書のような会話の影に隠れて、一向に見えてこないのだ。

「……高橋さんは、どうしてアプリを始められたんですか?」

 香帆が尋ねると、彼は少し困ったように笑った。

「周りがみんな結婚して、親もうるさくて。もう、一人で探すのは限界かなと思って。効率的ですしね、こういうの」

 効率的。

 その言葉が、耳の奥で冷たく響く。

 私たちは、恋をしたいのだろうか。それとも、ただ「独り」というレッテルから効率よく逃げ出したいだけなのだろうか。

 一時間半後。適度なタイミングで切り上げ、駅の改札で別れた。

「今日はありがとうございました。また連絡しますね」

 そう言い残した彼の背中を見送りながら、香帆は大きく息を吐いた。

 

 スマートフォンの画面を見る。

 彼からの「今日は楽しかったです」というメッセージが届くより先に、香帆はアプリを閉じた。

 楽しかった?

 いいえ、ただ疲れただけだ。

 

 銀座の歩行者天国を歩きながら、香帆はショーウィンドーに映る自分を見つめた。

 完璧なメイク、上品なワンピース。

 「普通にいい人」と「普通にいい場所」で会って、「普通にいい会話」をしたはずなのに。

 胸の奥にある空洞は、アプリを始める前よりも、ずっと大きく、冷え切っている。

(やっぱり、私、何かが壊れてるのかな)

 三年前の陽介との、あの泥沼のような喧嘩。

 あんなに苦しかったのに、あんなに傷ついたのに、今のこの「無」に比べれば、あれはまだ、生きている実感に満ちていたのではないか。

 香帆は、きらびやかな銀座の街を逃げ出すように、地下鉄のホームへと急いだ。

 鞄の中で、新しいマッチングを知らせる通知が小さく震えたが、彼女はそれを確認する気にはなれなかった。

 マッチング・ディストピア。

 そこは、条件という名の数字が飛び交う、感情を置き去りにした効率の戦場だった。


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