三年前の亡霊
深い眠りの中、香帆はまた「あの場所」にいた。
三年前の、湿度の高い六月の午後。引っ越し作業のために積み上げられた段ボールに囲まれた、かつての恋人・陽介と過ごしたリビング。
窓の外では、音もなく雨が降り続いていた。
陽介は、香帆にとって「完璧な人」だった。
出会いは二十六歳の時。共通の友人が開いた小さなホームパーティーだった。ITベンチャーで働く香帆に対し、彼は堅実なメーカー勤務。穏やかで、聞き上手で、何より香帆の仕事を誰よりも応援してくれた。
「香帆が楽しそうにコードの話をしてるのを見るのが、一番好きだよ」
そう言って笑う彼の隣は、世界で一番安全な場所に思えた。
付き合って三年が経ち、二十九歳になった春。二人の間には自然と「結婚」という言葉が浮かんでいた。
一緒に不動産屋を巡り、将来の子供の数や、老後の理想まで語り合った。
「普通に、幸せになろうね」
それが、当時の二人の合言葉だった。
けれど、具体的な「生活」の輪郭が見え始めた時、その「普通」という言葉が、鋭い刃物のように二人の間に割り込んできた。
「香帆、結婚したら、もう少し仕事をセーブできないかな。……ほら、うちの親も、できれば近くに住んでほしいって言ってるし」
その一言が、すべての始まりだった。
陽介が求めていた「普通」は、彼が育った家庭のような、夫が働き、妻が家庭を守るという伝統的なパズルだった。一方で、香帆が求めていた「普通」は、互いのキャリアを尊重し合い、対等なパートナーとして歩む自由なパズル。
一度ずれたピースは、どれだけ無理に押し込もうとしても、二度と嵌まることはなかった。
「私は、今の仕事を辞めるつもりはないし、あなたの両親の期待に応えるために生きてるわけじゃない」
「そんな言い方しなくてもいいじゃないか。俺はただ、家族としての安定を……」
怒鳴り合いはしなかった。
ただ、静かに、執拗に、互いの価値観を削り合う日々が続いた。
愛しているのに、一緒にいればいるほど自分が削り取られていくような恐怖。
「私、あなたといると、私じゃなくなっちゃう気がするの」
別れを切り出したのは、香帆だった。
陽介は最後まで、「何がいけなかったんだ。俺は君のために……」と、悲しそうな顔で繰り返していた。
あの顔を思い出すたびに、香帆の心には、名前のつかない罪悪感が冷たく澱のように沈む。
ハッと目が覚めると、部屋は薄暗い夜明け前の光に包まれていた。
頬が冷たい。知らず知らずのうちに、夢の中で涙を流していたらしい。
香帆はベッドの中で、重い腕を伸ばしてスマートフォンを手に取った。
クラウド上の写真フォルダ。その奥深くに、一枚だけ残してある写真がある。
三年前の誕生日。陽介が予約してくれたレストランで、二人で笑っている写真だ。
あの頃の自分は、今の自分よりもずっと若く、ずっと「明日」を信じている顔をしていた。
三年前の別れは、ただ一人の男を失っただけではなかった。
「誰かと深く関わり、未来を築くこと」に対する、圧倒的な自信を奪っていったのだ。
高望みをしているわけではない。
ただ、あんな風に全てを捧げて、最後にはボロボロになって崩れ落ちるあの絶望を、もう一度味わう勇気がないだけ。
今の「楽な独り」は、あの時の痛みを防ぐための防波堤なのだ。
けれど、防波堤を高く築けば築くほど、外の海にあるはずの「熱」からも遠ざかっていく。
「……バカみたい」
香帆は独りごちて、スマートフォンの画面を消した。
陽介はもう、別の誰かと「彼の望む普通」を築いているかもしれない。
それなのに、私の時計だけが、あの雨の日のリビングで止まったまま。
時計の針は、容赦なく午前六時を刻んでいる。
亡霊をクローゼットに押し込み、また「主任」としての自分を演じるための朝がやってくる。
香帆は深くため息をつき、乾いた喉を潤すためにキッチンへと向かった。
窓の外、夜が明けていく空を見つめながら。




