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金曜日の微熱、あるいは「普通」という名の贅沢  作者: 久遠 睦


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4/18

月曜日の鎧(後半)

オフィスビルを出ると、夜の空気は鋭く冷えていた。渋谷の喧騒をすり抜け、駅へと向かう足取りは、仕事の達成感というよりは、ただ「役割を終えた」という解放感に近い。

 香帆は自宅最寄りの駅に降りると、吸い寄せられるようにスーパーマーケットへ向かった。

 二十時を過ぎた店内は、どこか物悲しさと生活感が混じり合っている。

 惣菜コーナーには、定価を書き換える赤いシールが貼られ始めている。香帆は、半額になった「彩り野菜のサラダ」と、自分への小さな褒美として、少し良い銘柄のクラフトビールを一本、カゴに入れた。

 カゴの中身は、誰に気を遣うこともない、私だけの「一人分」。

 レジで袋を受け取り、重くなった右手を振りながら、街灯の等間隔に並ぶ夜道を歩く。

「……ただいま」

 オートロックのドアを開け、玄関のスイッチを押す。

 パッと点いた明かりが、完璧に整えられた一LDKの部屋を照らし出す。三年前、陽介と住むはずだった家よりも少し狭く、けれど自分のこだわりだけで埋め尽くした、私の城。

 コートを脱ぎ、タイトスカートを脱ぎ捨て、窮屈なストッキングから足を解放する。

 メイクを落とし、鏡の中に現れた「佐野香帆」は、職場の完璧な主任とは別人のように幼く、そしてどこか頼りない。

 

 適当に温めたサラダと、キッチンでそのままグラスに注いだビール。

 テレビはつけない。代わりに、お気に入りのジャズのプレイリストを小さな音で流す。

 この静寂が、今の香帆にとっては一番の贅沢だった。

 誰の機嫌を伺う必要もない。食べ終わった食器をいつ洗うかも自由。「今日、会社でこんなことがあってさ」という報告を、聞かせる相手も、聞くべき相手もいない。

(ああ、楽だなあ……)

 

 一口、ビールを飲み干す。

 喉を通る刺激が、胸の奥に溜まったおりを少しだけ流してくれるような気がする。

 

 けれど、ふと思う。

 この完璧な静寂の中に、もし誰かがいたら。

 例えば、さっき想像した瀬戸さんのような「普通にいい人」が。

 彼は私の脱ぎっぱなしの服を見て、何を思うだろう。

 私が疲れて黙り込んでいる時、「どうしたの?」と土足で踏み込んでくるのではないだろうか。

 

 想像しようとしても、どうしても視界が霧に包まれたようにぼやけてしまう。

 私の生活のリズム、私の物の配置、私だけの思考の時間。

 その全てを侵食してまで、隣にいてほしいと思える人間が、この世界に本当に存在するのだろうか。

 

 お風呂に浸かりながら、香帆は天井に揺れる湯気を見つめた。

 三年前の陽介との生活は、確かに熱を帯びていた。

 互いの体温を感じ、未来を語り合い、時には激しくぶつかった。

 あの頃の私は、今のこの「楽さ」を知らなかった。

 「楽」であることと、「幸せ」であることは、果たして同じ意味なのだろうか。

(このままでいいのかな)

 不意に、心の中にぽっかりと開いた暗い穴から、小さな声が聞こえてくる。

 三十二歳。まだ、どこへだって行けるはずの年齢。

 でも、一度覚えた「独りの自由」という猛毒は、確実に私の細胞を侵食している。

 

 湯冷めしないように素早くパジャマに着替え、ベッドに潜り込む。

 スマートフォンの画面をスクロールしても、指先が探しているのは「誰か」ではなく、ただ時間を潰すための無機質なニュースや動画だ。

 

 美香は「戦場」にいる。

 結衣は「守るべき生活」の中にいる。

 私は、そのどちらでもない、なぎのような中間に浮かんでいる。

 

 明日も、月曜日に着たのと同じような「鎧」を着て、私は外に出るだろう。

 「佐野さんは完璧ですね」と微笑まれながら。

 

 意識が遠のく間際、香帆は薄暗い寝室で独り言をこぼした。

「……寂しいわけじゃ、ないんだけどな」

 

 その言葉が、誰に宛てた嘘なのかも分からないまま、彼女は深い眠りへと落ちていった。


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