月曜日の鎧(よろい)
月曜日の朝。目覚まし時計の無機質なアラームが、まだ微睡みの淵にいた香帆を現実へと引き戻す。
カーテンの隙間から差し込む光は、金曜日の夜の退廃的な空気とは正反対の、容赦ない透明度を持っていた。
香帆は重い身体を起こし、洗面台の鏡の前に立つ。
そこには、週末の深酒と睡眠不足がうっすらと影を落とした、三十二歳の等身大の顔がある。
「……よし」
小さく気合を入れ、スキンケアを始める。化粧水、美容液、乳液。層を重ねるごとに、肌に艶が戻り、輪郭が引き締まっていく。そして最後に、シャネルの赤すぎないリップを引く。
これが、彼女にとっての「儀式」だ。
柔らかな私を心の奥底に隠し、誰に舐められることもない、完璧な「佐野主任」を作り上げるための。
オフィスは、渋谷の再開発エリアにある高層ビルの中にある。
開放的なフリーアドレス、いたるところに置かれた観葉植物、そしてコーヒーの香りとキーボードを叩く乾いた音。香帆が勤めるIT企業は、自由でフラットな社風を売りにしているが、その実、求められるスピードと成果は極めてシビアだ。
「佐野さん、おはようございます。先週のバグ修正の件、クライアントからOK出ました!」
デスクに着くなり、後輩の里美が声をかけてきた。二十五歳の彼女は、いつも太陽のようなエネルギーを振りまいている。
「よかった。里美さんが粘り強く対応してくれたおかげね。ありがとう」
香帆は努めて穏やかに、けれど適度な距離感を保った笑みを返す。
三十代に入ってから、職場の人間関係は「心地よさ」よりも「円滑さ」を優先するようになった。
感情を剥き出しにするのは効率が悪い。部下には頼りがいのある上司として、上司には計算の立つ部下として振る舞う。その「鎧」は、年々厚く、そして驚くほど軽くなっていった。
午後、社内のカフェスペースで里美とコーヒーを飲んでいた時、ふとした拍子に話題がプライベートに流れた。
「佐野さんは、土日何してたんですか?」
「土曜日は友達と飲みに行って、日曜日は録り溜めてたドラマを観て……普通よ」
「いいですね、大人な休日! 私は彼氏とキャンプに行ったんですけど、設営で喧嘩しちゃって。もう、本当に子供なんですよ、うちの人」
里美は口では愚痴を言いながらも、その瞳は幸せそうに潤っている。
「喧嘩できる相手がいるのは、いいことだよ」
香帆の口から出たのは、我ながら模範解答すぎる言葉だった。
「佐野さんって、本当に完璧ですよね。仕事もできて、綺麗で。絶対いい人いますよね? なんで隠してるんですかー」
悪気のない、けれど鋭いナイフのような質問。
「あはは、本当にいないのよ。今は仕事が恋人、なんて言うと古いかしら」
冗談めかしてかわしながら、香帆は胸の奥がチリりと痛むのを感じた。
完璧。
そう見せているのは、中身が空っぽであることの裏返しなのかもしれない。
仕事という確固たる「正解」がある世界では、彼女は堂々と振る舞える。努力すれば成果が出て、評価され、報酬が得られる。そこには、三年前の別れのような「理由のない拒絶」や「修復不可能なズレ」に怯える必要がないからだ。
夕暮れ時。
窓の外に広がる新宿のビル群が、オレンジ色から深い藍色へと溶けていく。
香帆はふと、隣の部署の瀬戸という男性に目を向けた。
彼は同い年で、仕事も丁寧、人当たりもいい。以前、グループでの飲み会で一度話したことがあるが、共通の趣味もあり、会話も弾んだ。
(瀬戸さんみたいな人と付き合えば、きっと『普通』に幸せになれるんだろうな)
そんな考えが頭をよぎる。しかし、それと同時に、決定的な何かが足りない自分に気づく。
瀬戸さんの横顔を見ても、鼓動は速くならない。彼と手をつなぐ自分を想像しても、何の体温も感じない。
美香が言っていた「チェックリスト」は埋まるかもしれない。
でも、その先にあるはずの「熱」がどこにも見当たらないのだ。
「お疲れさまでした」
十九時過ぎ。周囲の人間が一人、また一人と帰路につく中、香帆はあえて残業を選んだ。
誰もいなくなった静かなオフィス。PCのブルーライトだけが、彼女の顔を冷たく照らしている。
この孤独は、嫌いではない。
むしろ、誰とも向き合わなくていいこの時間こそが、今の香帆にとっては一番安全なシェルターだった。
ふと、結衣からLINEが届く。
『今日の夕飯、適当に済ませちゃった。旦那は飲み会。一人でコンビニのパスタ食べてると、独身時代の自由が懐かしくなるよ』
続いて、美香からも。
『アプリの男、三回目ドタキャンされた。死ねばいいのに(笑)。香帆、今週の金曜日も空けておいてね』
二人のメッセージに返信しながら、香帆は小さく息を吐いた。
鎧を着て戦う月曜日。
自由を寂しさと履き違える火曜日。
日常の隙間に、かつての恋の亡霊が紛れ込む水曜日。
一週間は、こうして「仕事」という名の砂で埋め尽くされていく。
香帆はPCをシャットダウンし、バッグを手に取った。
オフィスの自動ドアが開くと、夜の冷気が彼女を迎え入れる。
重い鎧を脱ぐのは、まだ先になりそうだった。
駅へ向かうエスカレーターで、香帆は無意識にスマートフォンの設定画面を開き、指先を止めた。
三年間、一度も消せなかったあの番号。
その感触をなぞるように見つめた後、彼女は力強く電源ボタンを押して、画面を暗転させた。




