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金曜日の微熱、あるいは「普通」という名の贅沢  作者: 久遠 睦


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2/18

泡に溶ける金曜日(後半)

 二杯目のハイボールが届く頃、テーブルの上には「生ハムの盛り合わせ」と「トリュフ香るフライドポテト」が並んでいた。

 三十二歳の胃袋には少し重いかもしれない。そう思いながらも、揚げたての芋を口に運ぶ手が止まらないのは、アルコールが理性のブレーキを緩めているせいだろう。

「……で、結衣の方はどうなのよ。旦那さんとは円満?」

 美香が、ポテトにケチャップをたっぷりつけながら尋ねた。

 結衣はグラスの中の氷をカラン、と鳴らして、少しだけ視線を落とした。

「円満よ。大きな喧嘩もしないし、家事も分担してる。……でもね、時々思うの。私は『妻』っていう役割を演じる、有能な事務員なんじゃないかって」

 結衣は二十九歳で、三歳上の商社マンと結婚した。

 端から見れば「勝ち組」のゴールテープを切ったように見えたはずだ。都内の新築マンション、週末のゴルフ、時折SNSにアップされる丁寧な暮らし。けれど、彼女の口から漏れたのは、凪のような平穏がもたらす空虚さだった。

「夜、リビングで隣同士に座ってても、お互いスマホ見てるだけ。会話と言えば、『明日のゴミ出しどっち?』とか『週末の義実家どうする?』とか。……香帆、あんたがさっき言った『普通』って、手に入れるとね、今度はその『普通』を維持することに必死になっちゃうのよ。ときめきなんて、もうとっくに恵比寿の駅前に落としてきたわ」

 自嘲気味に笑う結衣の指先には、家事のせいか少しだけ荒れた跡があった。

 独身の香帆からすれば、その「生活の匂い」さえ、どこか地に足がついた羨ましいものに思えてしまう。けれど、結衣にとっては、それもまた一種のおりなのかもしれない。

「私は結衣が羨ましいけどね。少なくとも、戦場からは上がってるじゃない」

 美香が冷ややかに、けれどどこか切実な声を出す。

「私なんて、いまだに泥沼の最前線よ。先週会った男、知ってる? アプリでマッチングした外資系のコンサル。プロフィールは完璧。写真も清潔感ある。でもね、二回目のデートで『将来、親と同居してほしい』ってさらっと言ってきたのよ。まだ付き合ってもいないのに。……効率悪すぎ」

 美香は、スマートフォンをテーブルに叩きつけるように置いた。画面には、無数の「いいね」やメッセージが届いているはずだ。

 彼女の恋愛観は徹底して「合理的」だ。

 時間は有限。三十代の若さは資産。だからこそ、リターンの見込めない投資(男)には一秒も費やしたくない。

「香帆、あんたは『心が動かない』って言うけど、私はもう、心の動かし方を忘れちゃったわ。チェックリストを埋める作業になっちゃってる。年収、学歴、身長、長男じゃないこと、タバコ吸わないこと……。全部クリアしても、最後に残るのは『で、この人のこと好きだっけ?』っていう、一番大事で一番どうでもいい疑問だけ」

 美香の言葉は鋭いナイフのように、香帆の胸に刺さった。

 高望みはしていない。

 その言葉の裏側に、私たちはどれだけの「防衛本能」を隠しているのだろう。

 傷つくのが怖くて、条件という名の鎧をまとい、自分と同じレベルの鎧をまとった相手を探しては、互いの隙間を値踏みし合っている。

「……ねえ、私たち、どこで間違えたのかな」

 香帆がつぶやくと、二人は一瞬、黙り込んだ。

 二十代の頃は、もっと無防備に恋に落ちていた。

 相手の欠点さえ「可愛い」と思えたし、深夜の理不尽な呼び出しにさえ、胸を高鳴らせて駆けつけた。

 でも今は、タクシー代や翌日の仕事のパフォーマンスを天秤にかけてしまう。賢くなった代わりに、私たちは圧倒的な「熱」を失ってしまったのだ。

「間違えてなんかないわよ。ただ、大人になっちゃっただけ。……ほら、飲もう。今日は最後まで付き合うから」

 美香が新しいボトルのワインを注文した。

 結衣も、「今日は旦那に『遅くなる』って送ったから大丈夫」と、少しだけいたずらっぽく微笑んだ。

 三人の会話は、そこからさらに加速した。

 仕事の理不尽な上司、最近落ちなくなった体重、将来の健康への不安。そして、時折混じる、遠い日の恋の思い出。

 時計の針がテッペンを回る頃には、店内の客もまばらになっていた。

 会計を済ませ、夜の冷気の中に踏み出す。

 アルコールのせいで、少しだけ世界が滲んで見える。

「じゃあね、また来月」

「次は香帆の『進捗』、期待してるから」

 駅の改札前で、二人はそれぞれの方向へと消えていった。

 一人になった途端、静寂が香帆を包み込む。

 電車に揺られながら、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。

 三十二歳、会社員。

 友達もいて、仕事もあって、楽しい金曜日を過ごしたはずなのに。

 帰宅して、誰もいない部屋の明かりを点けた瞬間、さっきまでの喧騒が嘘のように遠のいていく。

 香帆はコートを脱ぎ捨て、メイクも落とさずにソファに倒れ込んだ。

 バッグの中からスマートフォンを取り出す。

 連絡先の一番上にあるのは、今日の女子会のグループライン。

 そのさらに下――スクロールしなければ見えない位置に、三年前まで毎日やり取りしていた、今はもう動かない名前がある。

「……普通で、いいんだけどな」

 天井を見つめながら、声に出してみる。

 けれど、その「普通」の正体が、今夜の三人の会話を経てもなお、以前よりずっと輪郭を失っていることに、香帆は気づかないふりをした。

 頬を撫でる微熱が、冷めないうちに眠ってしまおう。

 明日になれば、また「有能な自分」という名の鎧を着て、月曜日までの短い休息を消化しなければならないのだから。


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