表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
金曜日の微熱、あるいは「普通」という名の贅沢  作者: 久遠 睦


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/18

泡に溶ける金曜日

恵比寿駅の改札を出ると、湿り気を帯びた夜風が頬を撫でた。二月半ば。冬の厳しさは峠を越えたはずなのに、コートの襟を立てたくなるような、どっちつかずの冷たさがある。

 佐野香帆さのかほは、スマートフォンの画面で時間を確認した。十九時十分。待ち合わせにはちょうどいい。

 「お待たせ!」

 いつものダイニングバーの扉を開けると、奥のボックス席から美香が大きく手を振った。その隣には、すでにグラスを傾けている結衣の姿がある。

「香帆、お疲れさま。今日も相変わらず『仕事できます』ってオーラ出てるわね」

 美香が茶化すように笑う。彼女は広告代理店勤務の三十二歳。華やかな顔立ちに、流行のオーバーサイズのジャケットがよく似合っている。

「やめてよ。ただの疲労臭だって」

 香帆は苦笑しながら、二人の向かいに腰を下ろした。

 とりあえずの生ビールが運ばれてくる。冷えたグラスの表面に、細かな結露が真珠のように並んでいる。

「じゃ、今週も生き抜いた私たちに。乾杯」

 結衣の音頭で、三つのグラスが軽やかな音を立てた。

 喉を通り過ぎる苦味と刺激。それだけで、一週間、複雑なコードや不機嫌なクライアントと向き合ってきた脳の皺が、ゆっくりと伸びていくような気がした。

「で、どうなのよ。最近の進捗は」

 美香が唐突に、爆弾を投げ込む。この場における『進捗』が、仕事のことではないことは百も承知だ。

「進捗も何も、なぎよ。完全な無風状態」

 香帆は、お通しのナッツを指先で弄びながら答えた。

「でも香帆、あんた先週のBBQ、男友達もたくさん来てたじゃない。健太くんとか、あいつ絶対あんたのこと狙ってると思ってたんだけど」

 既婚者である結衣が、好奇心に満ちた目で覗き込んでくる。結衣は大学時代からの付き合いで、三年前、香帆がボロボロになって別れた時も、朝まで一緒に泣いてくれた親友だ。

「健太は、いい人だよ。楽しいし、気も利くし。でもね……」

「『でも』の後に続くのは何?」

「なんて言うか……お酒を飲んで笑ってる分には最高なんだけど、その先の景色が見えないの。帰りの電車で隣に座ってる自分を想像すると、なぜかすごく肩が凝るっていうか」

 香帆は、自分の言葉の頼りなさに溜息をついた。

 「高望み」をしているつもりはない。年収一千万円以上とか、モデルのような容姿とか、そんな条件を並べているわけではないのだ。清潔感があって、会話が成立して、自分と同じくらいの熱量で仕事を楽しんでいて、たまの休みには一緒に美味しいものを食べて笑える人。

 それだけのことが、この砂漠のような東京では、絶滅危惧種を探すような難易度に感じられる。

「わかるわ」

 美香が深く頷き、赤ワインを煽った。

「三十歳を過ぎてからの恋愛って、もう『好き』だけじゃ動けないじゃない? 相手の生活習慣とか、親のこととか、将来設計とか……無意識に履歴書をスキャンしちゃう。で、ちょっとでもエラーが出ると、『あ、これ時間の無駄だわ』ってシャッターを下ろしちゃうのよね」

「私たちが二十代の頃は、もっとバカになれたのにね」

 結衣が少し寂しそうに笑う。

「香帆、陽介さんと別れてから、もう三年?」

「……うん。正確には三歳と二ヶ月」

 数字を口にした瞬間、心臓の奥がチリッと焼けるような感覚があった。

 陽介。三年前まで、香帆の世界のすべてだった男。

 将来を誓い合い、一緒に住む家を探し始めていた矢先、価値観の決定的なズレ――という名の、些細な、けれど修復不可能な亀裂で、二人の関係は崩壊した。

 あの日、段ボール数箱に詰め込まれた思い出と共に、香帆の「恋をする力」の一部もどこかへ消えてしまったのかもしれない。

「三年ね……。香帆、あんた十分休んだわよ」

 美香が真剣な顔で身を乗り出してきた。

「いい? 三十二歳の三年は、二十二歳の十年分くらいの価値があるんだから。これ以上、思い出という名のアーカイブを整理してる時間は無いの。新しいフォルダを作らなきゃ」

「新しいフォルダ、ね……」

 香帆は空になったビールグラスを見つめた。

 仕事は充実している。一人でいる時間の楽しみ方も覚えた。男女の友人に恵まれ、週末が寂しさで埋まることもない。

 でも、深夜、暗い部屋でスマートフォンの充電器を差し込む時、ふと思うのだ。

 私はこのまま、誰の特別にもならずに、「要領のいい、感じのいい独身女性」として完成されていくのだろうか、と。

「あのさ、ゆい、みか」

 香帆は、少し火照った顔を上げて言った。

「私、別に王子様が欲しいわけじゃないの。ただ、何でもない金曜日の夜に、『今日も疲れたね』って言い合って、一緒にこの泡が消えるのを眺めていられるような……。そういう『普通』が、今、一番贅沢に思えるんだよね」

 結衣と美香は、何も言わずに香帆のグラスに次の酒を注いだ。

 店内に流れるジャズの旋律が、少しだけ切なく響く。

 三十二歳、独身。

 仕事、友情、プライベート。手元にあるカードはそれなりに揃っているはずなのに、一番肝心な「ジョーカー」が足りないような、落ち着かない夜。

 恵比寿の喧騒は、夜が深まるほどに熱を帯びていく。

 香帆は、二人の親友と笑いながらも、心のどこかで願っていた。

 この微熱が、いつか本当の恋の熱に変わる日が来ることを。あるいは、このまま心地よい泡の中に溶けてしまいたいという、甘い絶望を。

 「次、何飲む?」

 美香の声に、香帆は「ハイボール」と答えた。

 明日も仕事はある。けれど今夜だけは、この曖昧な幸せに浸っていたかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ