泡に溶ける金曜日
恵比寿駅の改札を出ると、湿り気を帯びた夜風が頬を撫でた。二月半ば。冬の厳しさは峠を越えたはずなのに、コートの襟を立てたくなるような、どっちつかずの冷たさがある。
佐野香帆は、スマートフォンの画面で時間を確認した。十九時十分。待ち合わせにはちょうどいい。
「お待たせ!」
いつものダイニングバーの扉を開けると、奥のボックス席から美香が大きく手を振った。その隣には、すでにグラスを傾けている結衣の姿がある。
「香帆、お疲れさま。今日も相変わらず『仕事できます』ってオーラ出てるわね」
美香が茶化すように笑う。彼女は広告代理店勤務の三十二歳。華やかな顔立ちに、流行のオーバーサイズのジャケットがよく似合っている。
「やめてよ。ただの疲労臭だって」
香帆は苦笑しながら、二人の向かいに腰を下ろした。
とりあえずの生ビールが運ばれてくる。冷えたグラスの表面に、細かな結露が真珠のように並んでいる。
「じゃ、今週も生き抜いた私たちに。乾杯」
結衣の音頭で、三つのグラスが軽やかな音を立てた。
喉を通り過ぎる苦味と刺激。それだけで、一週間、複雑なコードや不機嫌なクライアントと向き合ってきた脳の皺が、ゆっくりと伸びていくような気がした。
「で、どうなのよ。最近の進捗は」
美香が唐突に、爆弾を投げ込む。この場における『進捗』が、仕事のことではないことは百も承知だ。
「進捗も何も、凪よ。完全な無風状態」
香帆は、お通しのナッツを指先で弄びながら答えた。
「でも香帆、あんた先週のBBQ、男友達もたくさん来てたじゃない。健太くんとか、あいつ絶対あんたのこと狙ってると思ってたんだけど」
既婚者である結衣が、好奇心に満ちた目で覗き込んでくる。結衣は大学時代からの付き合いで、三年前、香帆がボロボロになって別れた時も、朝まで一緒に泣いてくれた親友だ。
「健太は、いい人だよ。楽しいし、気も利くし。でもね……」
「『でも』の後に続くのは何?」
「なんて言うか……お酒を飲んで笑ってる分には最高なんだけど、その先の景色が見えないの。帰りの電車で隣に座ってる自分を想像すると、なぜかすごく肩が凝るっていうか」
香帆は、自分の言葉の頼りなさに溜息をついた。
「高望み」をしているつもりはない。年収一千万円以上とか、モデルのような容姿とか、そんな条件を並べているわけではないのだ。清潔感があって、会話が成立して、自分と同じくらいの熱量で仕事を楽しんでいて、たまの休みには一緒に美味しいものを食べて笑える人。
それだけのことが、この砂漠のような東京では、絶滅危惧種を探すような難易度に感じられる。
「わかるわ」
美香が深く頷き、赤ワインを煽った。
「三十歳を過ぎてからの恋愛って、もう『好き』だけじゃ動けないじゃない? 相手の生活習慣とか、親のこととか、将来設計とか……無意識に履歴書をスキャンしちゃう。で、ちょっとでもエラーが出ると、『あ、これ時間の無駄だわ』ってシャッターを下ろしちゃうのよね」
「私たちが二十代の頃は、もっとバカになれたのにね」
結衣が少し寂しそうに笑う。
「香帆、陽介さんと別れてから、もう三年?」
「……うん。正確には三歳と二ヶ月」
数字を口にした瞬間、心臓の奥がチリッと焼けるような感覚があった。
陽介。三年前まで、香帆の世界のすべてだった男。
将来を誓い合い、一緒に住む家を探し始めていた矢先、価値観の決定的なズレ――という名の、些細な、けれど修復不可能な亀裂で、二人の関係は崩壊した。
あの日、段ボール数箱に詰め込まれた思い出と共に、香帆の「恋をする力」の一部もどこかへ消えてしまったのかもしれない。
「三年ね……。香帆、あんた十分休んだわよ」
美香が真剣な顔で身を乗り出してきた。
「いい? 三十二歳の三年は、二十二歳の十年分くらいの価値があるんだから。これ以上、思い出という名のアーカイブを整理してる時間は無いの。新しいフォルダを作らなきゃ」
「新しいフォルダ、ね……」
香帆は空になったビールグラスを見つめた。
仕事は充実している。一人でいる時間の楽しみ方も覚えた。男女の友人に恵まれ、週末が寂しさで埋まることもない。
でも、深夜、暗い部屋でスマートフォンの充電器を差し込む時、ふと思うのだ。
私はこのまま、誰の特別にもならずに、「要領のいい、感じのいい独身女性」として完成されていくのだろうか、と。
「あのさ、ゆい、みか」
香帆は、少し火照った顔を上げて言った。
「私、別に王子様が欲しいわけじゃないの。ただ、何でもない金曜日の夜に、『今日も疲れたね』って言い合って、一緒にこの泡が消えるのを眺めていられるような……。そういう『普通』が、今、一番贅沢に思えるんだよね」
結衣と美香は、何も言わずに香帆のグラスに次の酒を注いだ。
店内に流れるジャズの旋律が、少しだけ切なく響く。
三十二歳、独身。
仕事、友情、プライベート。手元にあるカードはそれなりに揃っているはずなのに、一番肝心な「ジョーカー」が足りないような、落ち着かない夜。
恵比寿の喧騒は、夜が深まるほどに熱を帯びていく。
香帆は、二人の親友と笑いながらも、心のどこかで願っていた。
この微熱が、いつか本当の恋の熱に変わる日が来ることを。あるいは、このまま心地よい泡の中に溶けてしまいたいという、甘い絶望を。
「次、何飲む?」
美香の声に、香帆は「ハイボール」と答えた。
明日も仕事はある。けれど今夜だけは、この曖昧な幸せに浸っていたかった。




