噂の正体
夜の屋敷は、昼間の光をすべて吸い込んだように静かだった。
紗夜は書斎に呼ばれ、久遠と初めて二人きりで向かい合う。
「ここで、何をしているのだ」
久遠は机の前で書類に目を落としていた。
顔を上げず、視線だけを紗夜に向ける。
「少し、拝見させていただきたくて」
紗夜は静かに答える。
手元の書類に目を落とすと、数字や名簿が並ぶ。
村人の生活、領地の収支、作物の管理。
冷たく整理され、感情は一切ない。
「……噂を聞きました」
紗夜の声に、久遠が初めて顔を上げる。
眉間に薄い皺が寄る。
「冷酷、無慈悲、情けを知らぬ――」
「……それは、あなたが生き延びるために築いた壁です」
紗夜の言葉に、久遠の目がわずかに揺れた。
初めて、ほんの一瞬だけ、感情が透けた。
「……過去を知らぬ者には、私の冷たさしか映らぬ」
久遠は低く言う。
壁を作るしかなかった日々。
誰も信じられず、誰にも頼れず、ただ耐えることしかできなかった過去。
「それでも、皆が生きるために、決断を下すしかなかった」
紗夜はじっとその声を聞いた。
怒りでも悲しみでもない。
ただ、孤独と覚悟が詰まった声。
「奥様は、私をどう思う」
唐突な問いに、紗夜は息を呑む。
「……まだ、よく分かりません」
嘘ではない。
けれど、心は確かに揺れている。
久遠は視線を逸らし、書類に手を伸ばす。
言葉にならない沈黙が、二人を包む。
「……噂は、嘘ではない。だが、真実もまた、誰も知らぬ」
久遠の声は、かすかに震えた。
感情を押し殺すことが、いかに日常だったかが分かる。
紗夜は静かに頷いた。
その静けさが、彼を責めることではなく、受け止めることだと理解する。
夜の書斎で、初めて二人は沈黙の意味を共有した。
冷酷という壁の裏に、孤独があることを知った夜。
山茶花は、外の庭でまだ凍える雪の中に咲いている。
孤独も、冷たさも、静かに受け止める花のように。




