領主の妻として
村へ向かう道は、まだ冬の名残を残していた。
土は固く、ところどころに雪解けの水が溜まっている。
紗夜は久遠の半歩後ろを歩いていた。
並ぶことは許されているが、自然とその位置に落ち着く。
それが、これまでの生き方だった。
村人たちは、二人の姿に気づくと、慌てて頭を下げた。
久遠に向けられる視線には、畏れと緊張が混じっている。
紗夜はその空気を、静かに受け止めていた。
問題は、小さなことだった。
用水の取り分を巡る、言い争い。
どちらも生活がかかっているからこそ、譲れない。
久遠は話を聞き、淡々と状況を整理する。
無駄な感情は挟まない。
正しさだけを積み上げていく。
だが、言葉が鋭すぎる。
理解はされても、納得には届かない。
その様子を見ながら、紗夜は一歩前に出た。
自分でも驚くほど、自然な動きだった。
「少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
場が静まる。
久遠が、ちらりとこちらを見る。
止めるでも、促すでもない。
紗夜は、相手の目を見る。
責めない。
裁かない。
「お互いに、困っておられるのですね」
その一言で、空気が変わった。
村人の肩から、ほんの少し力が抜ける。
紗夜は続ける。
久遠の示した理を、噛み砕いて、やわらかく。
誰もが自分のこととして受け取れる言葉にして。
最後に、こう添えた。
「旦那様は、皆が冬を越えられるようにと考えておられます。
そのために、少しだけ、譲り合っていただけませんか」
沈黙。
やがて、一人が頷き、もう一人も頭を下げた。
「……分かりました」
事は、それで収まった。
帰り道、久遠は何も言わなかった。
だが、屋敷の門をくぐる直前、足を止める。
「余計なことをした、とは思っていない」
紗夜は少しだけ驚き、首を振った。
「私も、そう思っておりません」
久遠は短く息を吐いた。
それは、安堵に近い音だった。
「……ああ」
それだけ。
けれど、その一音に、確かな認める気配があった。
屋敷に戻ると、宗一郎が深く頭を下げた。
「奥様。見事でございました」
紗夜は、少しだけ困ったように微笑む。
役目を果たしただけ。
それでも、胸の奥に残るものがある。
久遠の背中を見ながら、紗夜は思った。
この人の隣に立つことは、
耐えるだけの役目ではないのかもしれない、と。
山茶花は、まだ落ちない。
少しずつ、春に近づいている。




