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山茶花の嫁  作者: 櫻木サヱ
同じ日

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24/25

沈黙

雨は翌朝には上がっていた。


屋根から落ちる雫が、まだ一定の間隔で庭に落ちている。


夜のうちに溜まった水が、瓦の端からひとつずつ落ちていた。


紗夜は朝餉を終えると、食器を下げるために立ち上がった。


いつもの動作だった。


膳を持ち上げる。


一歩進む。


廊下へ出る。


そこで、久遠と出会った。


昨日と同じように、道は狭かった。


けれど今日は、どちらもすぐには避けなかった。


久遠は紗夜の持っている膳を見る。


「重いか」


「いいえ」


「そうか」


それだけ言って、久遠は横へずれた。


紗夜も通り過ぎる。


ほんのわずかな距離。


それだけだった。


けれど、背中を向けて歩き出したあと、紗夜は自分が息を止めていたことに気づいた。


膳を置く。


手を洗う。


布で水気を拭く。


その間、何度も同じ動作を繰り返した。


何かを考えているわけではない。


ただ、手だけが忙しかった。


外では、雨上がりの庭から水の落ちる音がしている。


一定だった。


ひとつ。


またひとつ。


その音を聞いていると、昨日のことが、順番を持たずに浮かんできた。


障子。


雨。


木箱。


紙。


そして、廊下で目が合ったこと。


紗夜は手を止めた。


昨日、久遠は何かを言った。


「そのままでいい」


何のことだったのか。


今になっても分からない。


訊けば分かる。


そう思った。


けれど、訊かなかった。


理由はなかった。


理由がないことだけが、理由だった。


昼前、紗夜は庭に出た。


雨に濡れた土は黒く、ところどころに小さな水溜まりが残っている。


山茶花の枝から、水滴が落ちる。


葉の先に溜まっていたものが、光を受けて一瞬だけ明るくなり、それから土に消えた。


紗夜はその場に立った。


昨日までなら、縁側へ座っていた。


今日は座らなかった。


庭の中央に近いところまで歩いていく。


足元の土が少し柔らかい。


靴の底が沈む。


戻ろうと思えば戻れる。


それでも、もう一歩進んだ。


山茶花の木の下まで来る。


落ちた花がいくつもあった。


雨に濡れた花弁は、土の色を少しだけ拾っている。


赤かったものが、赤だけではなくなっている。


紗夜はしゃがんだ。


一つ拾う。


指先に冷たさが残る。


花はまだ形を保っていた。


しばらく見てから、元の場所へ戻した。


拾った意味はなかった。


戻した意味もなかった。


ただ、その動作をした。


立ち上がる。


そのとき、縁側に久遠がいるのが見えた。


紗夜は驚かなかった。


久遠も声をかけない。


庭と縁側。


その間には、雨に濡れた土がある。


「……」


久遠が何か言う気配がした。


けれど、言葉にはならなかった。


紗夜も待たなかった。


待たないことが、拒むことになるのかどうかも分からない。


ただ、庭を見た。


久遠も庭を見ていた。


山茶花の木は、二人のどちらにも近く、どちらにも遠かった。


昼の光が少しずつ動いていく。


木の影が、土の上をゆっくり移動する。


紗夜は、自分の影を見る。


その向こうに、久遠の影がある。


重なってはいない。


離れすぎてもいない。


風が吹いた。


二人の衣が同時に揺れた。


それだけだった。


「……午後から、晴れるらしい」


久遠が言った。


「そうですか」


「雨の匂いが残っている」


「はい」


そこで、また言葉が途切れた。


会話としては、あまりに短い。


けれど、どちらも続けようとはしなかった。


以前の沈黙には、終わりがあった。


何かを言わなければならない。


何かを決めなければならない。


そんなふうに、沈黙の向こうに次の動作が用意されていた。


今は違う。


沈黙のままでも、時間が進む。


鳥が一羽、屋根の上を横切った。


影だけが一瞬、庭を横切る。


久遠が立ち上がる。


「戻る」


紗夜は頷いた。


久遠は屋敷へ入っていく。


紗夜はもう少し庭に残った。


山茶花の葉から、最後の雫が落ちる。


今度は、音が聞こえなかった。


午後になって、屋敷の中に乾いた風が入り始めた。


障子がわずかに揺れる。


紗夜は部屋で針仕事をしていた。


昨日の続きだった。


針を刺す。


糸を引く。


布を返す。


同じ動作を何度も繰り返す。


廊下を、久遠が歩いていく。


足音は一度だけ、部屋の前で止まった。


紗夜は顔を上げなかった。


戸も開かなかった。


やがて足音が遠ざかる。


針を動かす。


一針。


また一針。


そのとき、紗夜はふと気づいた。


昨日までなら、足音が止まった時点で、顔を上げていた。


今日は上げなかった。


それだけだった。


夜になった。


灯りが一つずつ消えていく。


紗夜も灯りを落とす。


暗くなった部屋の中で、庭の山茶花だけが、窓の向こうにぼんやり浮かんでいる。


眠る前に、紗夜はしばらく目を閉じなかった。


何かを待っているわけではない。


誰かを待っているわけでもない。


ただ、暗闇の中にいる。


遠くで戸が閉じた。


足音が一つ。


二つ。


そして消える。


紗夜は目を閉じた。


その音がなくなったあとも、しばらく眠らなかった。

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