沈黙
雨は翌朝には上がっていた。
屋根から落ちる雫が、まだ一定の間隔で庭に落ちている。
夜のうちに溜まった水が、瓦の端からひとつずつ落ちていた。
紗夜は朝餉を終えると、食器を下げるために立ち上がった。
いつもの動作だった。
膳を持ち上げる。
一歩進む。
廊下へ出る。
そこで、久遠と出会った。
昨日と同じように、道は狭かった。
けれど今日は、どちらもすぐには避けなかった。
久遠は紗夜の持っている膳を見る。
「重いか」
「いいえ」
「そうか」
それだけ言って、久遠は横へずれた。
紗夜も通り過ぎる。
ほんのわずかな距離。
それだけだった。
けれど、背中を向けて歩き出したあと、紗夜は自分が息を止めていたことに気づいた。
膳を置く。
手を洗う。
布で水気を拭く。
その間、何度も同じ動作を繰り返した。
何かを考えているわけではない。
ただ、手だけが忙しかった。
外では、雨上がりの庭から水の落ちる音がしている。
一定だった。
ひとつ。
またひとつ。
その音を聞いていると、昨日のことが、順番を持たずに浮かんできた。
障子。
雨。
木箱。
紙。
そして、廊下で目が合ったこと。
紗夜は手を止めた。
昨日、久遠は何かを言った。
「そのままでいい」
何のことだったのか。
今になっても分からない。
訊けば分かる。
そう思った。
けれど、訊かなかった。
理由はなかった。
理由がないことだけが、理由だった。
昼前、紗夜は庭に出た。
雨に濡れた土は黒く、ところどころに小さな水溜まりが残っている。
山茶花の枝から、水滴が落ちる。
葉の先に溜まっていたものが、光を受けて一瞬だけ明るくなり、それから土に消えた。
紗夜はその場に立った。
昨日までなら、縁側へ座っていた。
今日は座らなかった。
庭の中央に近いところまで歩いていく。
足元の土が少し柔らかい。
靴の底が沈む。
戻ろうと思えば戻れる。
それでも、もう一歩進んだ。
山茶花の木の下まで来る。
落ちた花がいくつもあった。
雨に濡れた花弁は、土の色を少しだけ拾っている。
赤かったものが、赤だけではなくなっている。
紗夜はしゃがんだ。
一つ拾う。
指先に冷たさが残る。
花はまだ形を保っていた。
しばらく見てから、元の場所へ戻した。
拾った意味はなかった。
戻した意味もなかった。
ただ、その動作をした。
立ち上がる。
そのとき、縁側に久遠がいるのが見えた。
紗夜は驚かなかった。
久遠も声をかけない。
庭と縁側。
その間には、雨に濡れた土がある。
「……」
久遠が何か言う気配がした。
けれど、言葉にはならなかった。
紗夜も待たなかった。
待たないことが、拒むことになるのかどうかも分からない。
ただ、庭を見た。
久遠も庭を見ていた。
山茶花の木は、二人のどちらにも近く、どちらにも遠かった。
昼の光が少しずつ動いていく。
木の影が、土の上をゆっくり移動する。
紗夜は、自分の影を見る。
その向こうに、久遠の影がある。
重なってはいない。
離れすぎてもいない。
風が吹いた。
二人の衣が同時に揺れた。
それだけだった。
「……午後から、晴れるらしい」
久遠が言った。
「そうですか」
「雨の匂いが残っている」
「はい」
そこで、また言葉が途切れた。
会話としては、あまりに短い。
けれど、どちらも続けようとはしなかった。
以前の沈黙には、終わりがあった。
何かを言わなければならない。
何かを決めなければならない。
そんなふうに、沈黙の向こうに次の動作が用意されていた。
今は違う。
沈黙のままでも、時間が進む。
鳥が一羽、屋根の上を横切った。
影だけが一瞬、庭を横切る。
久遠が立ち上がる。
「戻る」
紗夜は頷いた。
久遠は屋敷へ入っていく。
紗夜はもう少し庭に残った。
山茶花の葉から、最後の雫が落ちる。
今度は、音が聞こえなかった。
午後になって、屋敷の中に乾いた風が入り始めた。
障子がわずかに揺れる。
紗夜は部屋で針仕事をしていた。
昨日の続きだった。
針を刺す。
糸を引く。
布を返す。
同じ動作を何度も繰り返す。
廊下を、久遠が歩いていく。
足音は一度だけ、部屋の前で止まった。
紗夜は顔を上げなかった。
戸も開かなかった。
やがて足音が遠ざかる。
針を動かす。
一針。
また一針。
そのとき、紗夜はふと気づいた。
昨日までなら、足音が止まった時点で、顔を上げていた。
今日は上げなかった。
それだけだった。
夜になった。
灯りが一つずつ消えていく。
紗夜も灯りを落とす。
暗くなった部屋の中で、庭の山茶花だけが、窓の向こうにぼんやり浮かんでいる。
眠る前に、紗夜はしばらく目を閉じなかった。
何かを待っているわけではない。
誰かを待っているわけでもない。
ただ、暗闇の中にいる。
遠くで戸が閉じた。
足音が一つ。
二つ。
そして消える。
紗夜は目を閉じた。
その音がなくなったあとも、しばらく眠らなかった。




