夜
朝から風が強かった。
雨のあとの庭は乾き始めていたが、まだところどころに水の跡が残っていた。山茶花の枝には、昨日の雨を含んだ葉が重たそうに揺れている。
紗夜は縁側に出ると、軒下に置いていた小さな籠を持ち上げた。
中には、干していた布が入っている。
風が強くなる前に取り込んでおいたほうがいい。
そう思っただけだった。
布を一枚ずつ畳む。
端を合わせる。
皺を伸ばす。
その作業をしていると、屋敷の奥から久遠が出てきた。
「それ、まだ乾いていない」
紗夜は布を広げた。
「少し湿っていますね」
「無理に畳むと、あとで匂う」
「では、もう少し干しておきます」
久遠は頷いた。
それだけで、話は終わった。
紗夜は布を元の場所へ戻す。
久遠は庭へ下りた。
何をするのかと思っていると、山茶花の枝に手を伸ばした。
折れていた枝が一本あった。
昨日の雨のせいかもしれない。
久遠はそれを切り落とした。
紗夜はその様子を縁側から見ていた。
「そこも」
紗夜が言った。
久遠が振り向く。
紗夜は少し離れた枝を指した。
「枯れています」
久遠はそちらを見る。
「これか」
「はい」
久遠が枝を切る。
落ちた枝を拾う。
紗夜は籠を持って庭へ下りた。
二人で、落ちた枝を集める。
それは特別な作業ではなかった。
庭を掃くときにも、冬支度をするときにも、同じようにすることだった。
けれど、いつからか、どちらが何をするかを決めなくても済むようになっていた。
久遠が太い枝を持つ。
紗夜が細い枝を拾う。
久遠が先に歩く。
紗夜が後からついていく。
そんな決まりを、二人とも作った覚えはない。
それでも、そうなっていた。
庭を一周すると、籠がいっぱいになった。
久遠が持ち上げる。
「置いておく」
「そこに?」
「薪の横」
「濡れませんか」
「午後には乾く」
紗夜は頷いた。
籠を置く。
その横に、昨日落ちた山茶花の花がいくつか残っていた。
久遠がそれを見る。
「拾わないのか」
紗夜は花を見た。
「……今日は、そのままにします」
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。
屋敷へ戻る。
廊下には朝の冷気が残っていた。
紗夜が障子を閉める。
久遠が火鉢の灰を整える。
それぞれが、それぞれのことをしている。
けれど、どちらか一人だけでは屋敷の朝が始まらないような気がした。
昼前になると、紗夜は台所へ入った。
米を研ぐ。
鍋を火にかける。
野菜を切る。
包丁の音が続く。
ときどき、外から風の音が聞こえた。
久遠は台所には入ってこない。
ただ、戸口に置かれた薪が少なくなっていることに気づくと、何も言わずに補充していた。
紗夜が振り返ったときには、もういなかった。
薪を見る。
それから、火を見る。
何も言わない。
食事の時間になった。
二人は向かい合って座った。
以前よりも、食事の時間は長くなっていた。
話すからではない。
食べ終わったあとも、すぐには立たなくなったからだった。
紗夜が湯呑みに手を伸ばす。
久遠が急須を持つ。
「入れる」
「お願いします」
湯を注ぐ。
紗夜の湯呑みが満ちる。
久遠が自分の分を注ぐ。
その順番に、誰も何も思わない。
食事が終わる。
紗夜が膳を下げようとすると、久遠が先に立ち上がった。
「それは置いておけ」
「でも」
「今日は俺がやる」
紗夜は手を止めた。
「……分かりました」
膳を渡す。
久遠が持っていく。
紗夜はその背中を見ていた。
以前なら、何か手伝おうとしたかもしれない。
けれど今日は座ったままだった。
久遠が戻ってくる。
「茶、飲むか」
「はい」
久遠が湯を沸かす。
紗夜は湯呑みを二つ出す。
それだけだった。
午後になると、風が少し弱くなった。
紗夜は朝の布を取り込んだ。
乾いている。
一枚ずつ畳む。
その途中で、久遠の着物が一枚混じっていることに気づいた。
洗濯物の籠を分けるときに間違えたらしい。
紗夜はそれを持って、廊下を歩いた。
久遠の部屋の前で立ち止まる。
戸は閉まっていた。
「久遠さん」
返事はない。
もう一度呼ぼうとして、やめる。
少し待つ。
中から紙をめくる音がした。
「入る」
「はい」
戸を開ける。
久遠は文机の前に座っていた。
紗夜は着物を差し出した。
「混ざっていました」
「ありがとう」
受け取る。
紗夜は戻ろうとした。
「紗夜」
呼ばれて、振り返る。
「明日の朝、少し早く出る」
「どちらへ?」
「町まで」
「分かりました」
「帰りは昼過ぎになる」
「では、昼は軽くしておきます」
久遠が顔を上げる。
「そうしてくれ」
「はい」
それだけで話は終わった。
紗夜は戸を閉めた。
廊下へ出る。
足音が一つずつ遠ざかる。
明日の予定を伝える。
昼食の量を変える。
それだけの会話だった。
けれど、それが生活だった。
夜。
風はすっかり止んでいた。
二人は縁側に座っていた。
庭は暗い。
山茶花の姿も、輪郭しか分からない。
紗夜の隣には、湯気の立つ湯呑みがある。
久遠の手元にも同じものがある。
「寒くないか」
「大丈夫です」
「そうか」
久遠はそれ以上、何も言わなかった。
しばらくして、紗夜の湯呑みが空になった。
久遠が気づいた。
「もう一杯いるか」
紗夜は少し考えた。
「お願いします」
久遠が立つ。
屋敷の中へ入る。
すぐに戻ってくる。
湯呑みを置く。
紗夜は両手で包む。
「熱い」
「冷めるまで待て」
「はい」
二人は庭を見る。
山茶花の花が一つ、暗闇の中で白く浮いていた。
紗夜はそれを見ていた。
久遠も見ていた。
どちらも何も言わない。
やがて久遠が立ち上がる。
「もう入るか」
紗夜も立つ。
「はい」
廊下へ入る。
久遠が先に歩く。
紗夜が後ろを歩く。
角を曲がるところで、久遠が足を止めた。
紗夜も止まる。
「明日の朝、冷えるらしい」
「では、外套を出しておきます」
「頼む」
「はい」
また歩き出す。
それぞれの部屋へ向かう。
少し進んだところで、久遠が振り返った。
「おやすみ」
紗夜も振り返る。
「おやすみなさい」
戸が閉まる。
灯りが一つ消える。
もう一つ消える。
屋敷の中から音がなくなっていく。
眠る前に、紗夜は明日の外套を出しておいた。
自分のものと、もう一枚。
畳んで、同じ場所に置く。
それから灯りを消した。
夜の庭では、山茶花が風もないのに一度だけ揺れた。
翌朝になれば、久遠は町へ出る。
紗夜は朝餉を用意する。
帰ってくる時間に合わせて、火を起こす。
それだけのことだった。
それだけのことが、いつの間にか一日の形になっていた。




