動作
午後から雨になった。
朝のうちは降る気配などなかった。空は薄く曇っていたが、雲の底は明るく、庭の石も乾いていた。
それが、昼を過ぎた頃から急に暗くなった。
最初の雨粒は、庭の土に小さな黒い点を作った。
一つ。
また一つ。
それから、間隔がなくなった。
紗夜は廊下の端に立って、雨を見ていた。
庭の向こうが白く霞んでいる。
山茶花の木も、その向こうにあった。
赤い花が、雨の中で重たそうに首を垂れている。
窓を閉めようと思った。
けれど、すぐには動かなかった。
雨の匂いが入ってくる。
冷たい匂いではない。
土が濡れたときにだけする、少し深い匂いだった。
紗夜は手を伸ばし、障子に触れた。
そのとき、反対側から同じように手が伸びてきた。
指先が触れることはなかった。
障子を挟んで、手だけが止まる。
久遠だった。
紗夜は、手を引かなかった。
久遠も、すぐには動かなかった。
障子一枚。
その薄い境目が、妙に大きく感じられた。
「……雨だな」
久遠が言った。
「はい」
それだけだった。
二人とも、分かりきったことを口にした。
それでも、その言葉が不自然には聞こえなかった。
久遠が障子を閉める。
紗夜も反対側から手を離した。
音がした。
すう、と紙が滑る音。
それで、二人の間から庭が消えた。
紗夜は閉じられた障子を見た。
いつもなら、そのまま別の場所へ行っていた。
けれど、その日は動かなかった。
障子の向こうに久遠がいる。
それが分かっていたからだった。
やがて、向こう側で足音がする。
一歩。
二歩。
遠ざかる。
紗夜は、そこで初めて歩き出した。
自分の部屋へ戻るつもりだった。
廊下を曲がる。
その先に、久遠がいた。
二人とも、足を止めた。
さっきまで障子を挟んでいた距離が、今度はなくなっている。
近い。
以前にも、これくらいの距離になったことはあった。
けれど、そのときとは違った。
久遠は何か言おうとして、やめた。
紗夜も、何も言わない。
雨音だけが、屋敷の外側を埋めていた。
「……」
久遠が、紗夜の脇を通ろうとする。
紗夜は道を空けた。
一歩、横へ。
久遠が通り過ぎる。
衣が触れそうになり、触れない。
それだけだった。
けれど、久遠は三歩進んだところで止まった。
振り返る。
紗夜も振り返った。
目が合う。
今までなら、どちらかが先に視線を外していた。
その日は、どちらも外さなかった。
長い時間ではなかった。
ほんの数秒だったのかもしれない。
雨音のほうが長く感じられた。
「……そのままでいい」
久遠が言った。
何のことか、紗夜には分からなかった。
着物のことなのか。
立っている場所のことなのか。
あるいは、別の何かなのか。
訊かなかった。
久遠も、それ以上は言わなかった。
再び歩いていく。
紗夜は、その背中を見ていた。
いつもなら、ここで終わる。
けれど、その日は違った。
廊下の向こうから、何かが転がる音がした。
雨のせいで湿った風が入り、置かれていた小さな木箱が倒れたらしい。
紗夜がそちらへ向かう。
久遠も同時に振り返った。
二人の動きが重なった。
先に手を伸ばしたのは久遠だった。
木箱を起こす。
中から、古いものが一つ落ちている。
紙だった。
何枚か重なった薄い紙。
久遠が拾い上げる。
その手が止まった。
紗夜は何も訊かなかった。
久遠も説明しなかった。
ただ、紙を一度見て、それから折り直した。
丁寧な動作だった。
何かを隠すようでもなく、見せるようでもなかった。
紗夜は、そこに書かれていたものを見なかった。
見ることはできた。
けれど、見なかった。
久遠は紙を箱へ戻した。
「古いものだ」
「はい」
「捨てるつもりだった」
「……そうですか」
それだけで終わった。
久遠は箱を持ち上げる。
紗夜も片側に手を添えた。
「いい」
「持てます」
「そういう意味ではない」
紗夜は手を離した。
久遠が一人で箱を持っていく。
その背中を見ながら、紗夜は思った。
あの紙について、何も知らない。
何が書かれていたのかも。
誰のものだったのかも。
なぜ今まで残っていたのかも。
知らないままでいいのだと思った。
ただ、知らないということが、以前ほど遠く感じられなかった。
雨は夕方まで降り続いた。
庭の山茶花は、雨を受けたまま動かなかった。
一輪の花が、重みに耐えきれなくなったように落ちた。
今度は、縁側まで音が届いた。
ぽとり、と。
小さな音だった。
紗夜はその音を聞いた。
誰も拾わなかった。
夜になっても、雨は止まなかった。
紗夜は灯りのそばで針を持っていた。
けれど、針を進めることはなかった。
昼間のことを考えているわけではない。
考えようともしていない。
ただ、手が止まっている。
廊下の向こうで、戸が閉まる。
少し遅れて、足音がする。
紗夜は顔を上げた。
足音は、途中で止まった。
それから、何も聞こえなくなった。
紗夜は針を置いた。
立ち上がる。
戸を開ける。
廊下には、誰もいなかった。
ただ、雨の匂いだけが残っていた。
紗夜はしばらくそこに立っていた。
戻ろうとして、やめる。
廊下の先を見る。
そこには何もない。
それでも、昼間とは違う場所に見えた。
同じ屋敷。
同じ廊下。
同じ雨。
なのに、立っている場所だけが、少しずれている。
紗夜は、何もせずに戸を閉めた。
そして、もう一度、針を手に取った。
今度は、糸を通した。
一針。
二針。
三針。
布の上に、細い線が残っていく。
その動作だけは、昨日までと同じだった。




