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山茶花の嫁  作者: 櫻木サヱ
同じ日

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23/25

動作

午後から雨になった。


朝のうちは降る気配などなかった。空は薄く曇っていたが、雲の底は明るく、庭の石も乾いていた。


それが、昼を過ぎた頃から急に暗くなった。


最初の雨粒は、庭の土に小さな黒い点を作った。


一つ。


また一つ。


それから、間隔がなくなった。


紗夜は廊下の端に立って、雨を見ていた。


庭の向こうが白く霞んでいる。


山茶花の木も、その向こうにあった。


赤い花が、雨の中で重たそうに首を垂れている。


窓を閉めようと思った。


けれど、すぐには動かなかった。


雨の匂いが入ってくる。


冷たい匂いではない。


土が濡れたときにだけする、少し深い匂いだった。


紗夜は手を伸ばし、障子に触れた。


そのとき、反対側から同じように手が伸びてきた。


指先が触れることはなかった。


障子を挟んで、手だけが止まる。


久遠だった。


紗夜は、手を引かなかった。


久遠も、すぐには動かなかった。


障子一枚。


その薄い境目が、妙に大きく感じられた。


「……雨だな」


久遠が言った。


「はい」


それだけだった。


二人とも、分かりきったことを口にした。


それでも、その言葉が不自然には聞こえなかった。


久遠が障子を閉める。


紗夜も反対側から手を離した。


音がした。


すう、と紙が滑る音。


それで、二人の間から庭が消えた。


紗夜は閉じられた障子を見た。


いつもなら、そのまま別の場所へ行っていた。


けれど、その日は動かなかった。


障子の向こうに久遠がいる。


それが分かっていたからだった。


やがて、向こう側で足音がする。


一歩。


二歩。


遠ざかる。


紗夜は、そこで初めて歩き出した。


自分の部屋へ戻るつもりだった。


廊下を曲がる。


その先に、久遠がいた。


二人とも、足を止めた。


さっきまで障子を挟んでいた距離が、今度はなくなっている。


近い。


以前にも、これくらいの距離になったことはあった。


けれど、そのときとは違った。


久遠は何か言おうとして、やめた。


紗夜も、何も言わない。


雨音だけが、屋敷の外側を埋めていた。


「……」


久遠が、紗夜の脇を通ろうとする。


紗夜は道を空けた。


一歩、横へ。


久遠が通り過ぎる。


衣が触れそうになり、触れない。


それだけだった。


けれど、久遠は三歩進んだところで止まった。


振り返る。


紗夜も振り返った。


目が合う。


今までなら、どちらかが先に視線を外していた。


その日は、どちらも外さなかった。


長い時間ではなかった。


ほんの数秒だったのかもしれない。


雨音のほうが長く感じられた。


「……そのままでいい」


久遠が言った。


何のことか、紗夜には分からなかった。


着物のことなのか。


立っている場所のことなのか。


あるいは、別の何かなのか。


訊かなかった。


久遠も、それ以上は言わなかった。


再び歩いていく。


紗夜は、その背中を見ていた。


いつもなら、ここで終わる。


けれど、その日は違った。


廊下の向こうから、何かが転がる音がした。


雨のせいで湿った風が入り、置かれていた小さな木箱が倒れたらしい。


紗夜がそちらへ向かう。


久遠も同時に振り返った。


二人の動きが重なった。


先に手を伸ばしたのは久遠だった。


木箱を起こす。


中から、古いものが一つ落ちている。


紙だった。


何枚か重なった薄い紙。


久遠が拾い上げる。


その手が止まった。


紗夜は何も訊かなかった。


久遠も説明しなかった。


ただ、紙を一度見て、それから折り直した。


丁寧な動作だった。


何かを隠すようでもなく、見せるようでもなかった。


紗夜は、そこに書かれていたものを見なかった。


見ることはできた。


けれど、見なかった。


久遠は紙を箱へ戻した。


「古いものだ」


「はい」


「捨てるつもりだった」


「……そうですか」


それだけで終わった。


久遠は箱を持ち上げる。


紗夜も片側に手を添えた。


「いい」


「持てます」


「そういう意味ではない」


紗夜は手を離した。


久遠が一人で箱を持っていく。


その背中を見ながら、紗夜は思った。


あの紙について、何も知らない。


何が書かれていたのかも。


誰のものだったのかも。


なぜ今まで残っていたのかも。


知らないままでいいのだと思った。


ただ、知らないということが、以前ほど遠く感じられなかった。


雨は夕方まで降り続いた。


庭の山茶花は、雨を受けたまま動かなかった。


一輪の花が、重みに耐えきれなくなったように落ちた。


今度は、縁側まで音が届いた。


ぽとり、と。


小さな音だった。


紗夜はその音を聞いた。


誰も拾わなかった。


夜になっても、雨は止まなかった。


紗夜は灯りのそばで針を持っていた。


けれど、針を進めることはなかった。


昼間のことを考えているわけではない。


考えようともしていない。


ただ、手が止まっている。


廊下の向こうで、戸が閉まる。


少し遅れて、足音がする。


紗夜は顔を上げた。


足音は、途中で止まった。


それから、何も聞こえなくなった。


紗夜は針を置いた。


立ち上がる。


戸を開ける。


廊下には、誰もいなかった。


ただ、雨の匂いだけが残っていた。


紗夜はしばらくそこに立っていた。


戻ろうとして、やめる。


廊下の先を見る。


そこには何もない。


それでも、昼間とは違う場所に見えた。


同じ屋敷。


同じ廊下。


同じ雨。


なのに、立っている場所だけが、少しずれている。


紗夜は、何もせずに戸を閉めた。


そして、もう一度、針を手に取った。


今度は、糸を通した。


一針。


二針。


三針。


布の上に、細い線が残っていく。


その動作だけは、昨日までと同じだった。

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