庭
昼を少し過ぎたころ、紗夜は庭へ出た。
朝から薄く曇っていた空は、まだ晴れきらずにいる。雲の切れ目から落ちてくる光は弱く、庭の石や植え込みを、均一な明るさにはしなかった。
縁側に腰を下ろす。
庭は静かだった。
静か、といっても音がないわけではない。
どこかで水が落ちている。
風が葉を揺らしている。
屋敷の中から、戸を開ける音がして、すぐに閉じる。
それらが重なったり離れたりしながら、昼の庭を形づくっていた。
紗夜は膝の上に手を置いた。
以前なら、庭へ出るときには何か目的があった。
花を見るため。
掃除をするため。
用事の途中で少し休むため。
けれど、このところは、庭に出ても何もしないことが増えた。
ただ座っている。
それだけだった。
山茶花の木を見る。
冬の間に咲いていた花は少なくなっていた。
枝のところどころに、まだ赤い色が残っている。
白い花は、もうほとんど見えない。
落ちた花は土の上にあった。
誰かが片づけたものもあれば、そのまま残っているものもある。
土に触れた花弁は、朝見たときより少しだけ色を失っていた。
紗夜は、それを見ていた。
長い時間ではなかった。
けれど、目を逸らす理由もなかった。
風が吹く。
枝が揺れる。
残っていた花の一つが、わずかに傾いた。
落ちるほどではない。
ただ、風に押されて揺れただけだった。
紗夜は目を細める。
そのとき、背後で足音がした。
一つ。
間を置いて、もう一つ。
足音は縁側まで来ることなく、そこで止まった。
紗夜は振り返らなかった。
しばらくして、隣に人が座る気配がする。
久遠だった。
以前なら、久遠が隣に座るだけで、紗夜の身体はわずかに強張った。
今は、そうならなかった。
ただ、隣の板が少しだけ軋んだ。
それだけだった。
二人とも庭を見る。
山茶花。
石。
濡れた土。
低い植え込み。
その向こうにある塀。
見慣れたものばかりだった。
久遠は何も言わなかった。
紗夜も何も言わなかった。
庭には、二人以外の時間が流れている。
風が止む。
鳥の声が一度だけ聞こえる。
屋敷の中で、何かを置く音がする。
それからまた静かになる。
紗夜は、自分の右手を少し動かした。
袖が畳に触れる。
その小さな音が、妙に近く聞こえた。
久遠の手は膝の上に置かれている。
視線を向けなくても、それが分かった。
隣にいる人のことを見なくても、そこにいることが分かる。
それは特別なことではないのかもしれなかった。
同じ屋敷に暮らしているのだから、当然だった。
朝も。
昼も。
夜も。
どこかに気配がある。
それだけのことだった。
けれど、以前とは少し違っていた。
以前は、その気配が近くにあることを知るたび、紗夜は自分の動きを決めなければならなかった。
声をかけるべきか。
離れるべきか。
そこにいていいのか。
今は、そのどれも考えない。
久遠がいる。
自分もいる。
庭がある。
それだけだった。
風が再び吹いた。
山茶花の花弁が揺れる。
一枚が落ちた。
今度は、紗夜にも分かった。
音はしなかった。
ただ、赤いものが枝から離れ、土の上へ移った。
久遠も見ていた。
けれど、何も言わない。
紗夜も何も言わない。
落ちた花は、二人の間にある庭の一部になった。
しばらくして、久遠が立ち上がった。
紗夜は顔を上げない。
足音が二つ、三つ。
遠ざかっていく。
縁側の板が、元の形に戻る。
一人分の重さがなくなっただけなのに、空間が少し広くなったように感じた。
紗夜は庭を見続けた。
先ほどまで隣にあったものがなくなった。
それでも、庭は変わらない。
山茶花も。
石も。
土も。
何も変わらない。
紗夜は立ち上がった。
膝についた小さな埃を払う。
部屋へ戻ろうとして、ふと足を止める。
庭の端に、落ちた花が一つある。
拾おうとして、手を伸ばしかける。
けれど、やめた。
そのまま歩き出す。
廊下へ上がる。
後ろを振り返ることはなかった。
午後の光が、庭の一部だけを明るくしている。
山茶花はまだそこにあった。
明日も、たぶん、そこにある。
ただ、それだけのことだった。




