温度
夜明け前、空気が一段冷える。
寒さというほどではなく、
皮膚の表面だけが、わずかに目を覚ます。
紗夜は布団の中で、その違いを感じていた。
目を開けなくても分かる。
昨夜と、同じではない。
起き上がると、畳が冷たい。
足裏に触れる感覚が、
少し長く残る。
着物を羽織り、庭へ出る。
空気は澄んでいるが、
冷たさは均一ではない。
場所によって、差がある。
縁側の端は冷え、
柱の近くは、ほんのわずかに温い。
屋敷が、夜のあいだに溜め込んだものが、
まだ抜けきっていない。
紗夜は、温度の残る場所に立つ。
意識して選んだわけではない。
足が、自然にそこへ向かった。
庭を見る。
山茶花の花弁に、朝露が残っている。
光を受けても、すぐには乾かない。
背後で、衣擦れの音。
久遠が来たのだと分かる前に、
空気の温度が変わった。
近づいたわけでも、触れたわけでもない。
ただ、冷え方が、少し違う。
二人のあいだに、距離はある。
位置も、昨日と同じだ。
だが、温度だけが、揃わない。
久遠が息を吐く。
その白さは、すぐに消える。
紗夜の呼吸も、同じように消える。
「冷えるな」
言葉は、それだけ。
意味を含ませる余地のない、事実。
「はい」
返事も、同じ。
久遠は外套を整える。
その動きで、空気がわずかに動く。
冷たい層と、温い層が混ざる。
紗夜は、その変化を、
皮膚で受け取る。
触れない。
近づかない。
それでも、
温度は移る。
二人は並んで庭を見る。
視線は合わない。
だが、同じ高さで、同じ方向。
時間が進むにつれ、
日が差し込み始める。
影が後ろへ退き、
冷えた空気が、少しずつ緩む。
温度の差は、薄れていく。
それでも、完全には消えない。
久遠が一歩動く。
紗夜も、それに合わせて動く。
並び方は変わらない。
屋敷の中へ戻ると、
廊下は外より温い。
だが、その温さも、
朝が進めば均される。
それが分かっているから、
今の差を、確かめる。
食事の場。
座る位置。
器に触れる指先。
すべて、昨日と同じはずなのに、
温度だけが、少し違う。
久遠の手が、器を持ち上げる。
紗夜の手も、同じ動作をする。
触れないまま、
同じ温さに近づく。
昼が過ぎ、夕が来る。
冷えと温もりが、
一日の中で何度も入れ替わる。
それでも、
朝のあの差だけは、
一度も完全に失われなかった。
夜、部屋に戻る。
灯を落とし、布団に入る。
身体の内側に、
外の温度が残っている。
それは、
誰かのものでも、
自分のものでもない。
ただ、
同じ空気にいた痕跡。
紗夜は目を閉じる。
冷えきる前に、
その感覚を手放さなかった。
温度は、
言葉よりも先に、
関係を知ってしまう。
そう思いかけて、
その考えを、途中でやめる。
温度は、意味を持たない。
ただ、そこにあった。




