影
夕方、屋敷の中の色が変わる。
光そのものが弱まるのではなく、
ものが先に暗くなる。
柱の影が、床に伸びる。
午前中とは違い、輪郭が曖昧だ。
端が滲み、重なり合い、
どこからどこまでが影なのか分からなくなる。
紗夜は廊下を歩きながら、
その影を避けるでも、踏み込むでもなく進んだ。
影は、道を塞がない。
だが、進み方を選ばせる。
部屋に戻ると、灯りはつけなかった。
窓から入る光だけで、十分だった。
視界が不確かになることで、
見えなくなるものと、逆に残るものがある。
衣桁に掛けた着物の影。
畳の目の凹凸。
それらは昼より、はっきりしている。
障子の向こうで、足音がする。
一定の速さ。
止まり、また進む。
屋敷の中を巡る誰かの動きだと分かる。
その影は、障子に映らない。
位置は近いはずなのに、
形として現れない。
久遠の足音だと、紗夜は思った。
確信はない。
だが、歩調が似ていた。
名前を口に出すことはしない。
名前を呼べば、影は人になってしまう。
やがて足音は遠ざかる。
そのあいだ、紗夜は座ったまま動かなかった。
影が通り過ぎるのを待つように。
庭に目を向ける。
山茶花の木が、暗さの中に沈んでいる。
咲いているのか、
すでに落ちているのか、
判別がつかない。
風が吹くと、枝が揺れ、
影も一緒に揺れる。
実体と影が、同じ動きをしている。
ふと、廊下に人影が落ちる。
それは、はっきりとした形ではない。
柱に遮られ、途中で切れている。
紗夜は視線を上げる。
そこに、久遠が立っていた。
互いに言葉はない。
だが、影だけは重なっている。
二人の影は、完全には重ならない。
少しずれて、床に並ぶ。
そのずれが、
距離なのか、時間なのかは分からない。
久遠が一歩動くと、影も動く。
紗夜が呼吸をすると、
それに合わせて影が揺れたように見える。
その錯覚を、否定しなかった。
「灯りをつけないのか」
久遠の声は、低く、影の中に落ちる。
響きは小さい。
「はい」
それ以上は続かない。
久遠は部屋に入らず、
廊下に立ったままだった。
境界を越えない位置。
影は、障子と床をまたいで伸びている。
だが、本人は動かない。
しばらくして、久遠は踵を返す。
影も、それに従って引き戻される。
影が消えると、
部屋は元の暗さに戻る。
だが、同じではなかった。
紗夜は、灯りをつける。
明るくなると、
影はすべて消える。
それでも、
影があった場所を、
目でなぞることはできた。
夜が深まる。
外から聞こえる音は少なくなる。
布団に入り、目を閉じても、
影はすぐには消えなかった。
それは、見るものではなく、
そこにあったという感覚として残る。
影は、人よりも先に、
関係を作る。
そう考えて、
紗夜はその言葉を、
心の中で否定した。
言葉にした瞬間、
影は意味を持ってしまう。
影は、ただ、あった。




