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山茶花の嫁  作者: 櫻木サヱ
気配の層

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18/25

影

夕方、屋敷の中の色が変わる。

光そのものが弱まるのではなく、

ものが先に暗くなる。


柱の影が、床に伸びる。

午前中とは違い、輪郭が曖昧だ。

端が滲み、重なり合い、

どこからどこまでが影なのか分からなくなる。


紗夜は廊下を歩きながら、

その影を避けるでも、踏み込むでもなく進んだ。

影は、道を塞がない。

だが、進み方を選ばせる。


部屋に戻ると、灯りはつけなかった。

窓から入る光だけで、十分だった。

視界が不確かになることで、

見えなくなるものと、逆に残るものがある。


衣桁に掛けた着物の影。

畳の目の凹凸。

それらは昼より、はっきりしている。


障子の向こうで、足音がする。

一定の速さ。

止まり、また進む。

屋敷の中を巡る誰かの動きだと分かる。


その影は、障子に映らない。

位置は近いはずなのに、

形として現れない。


久遠の足音だと、紗夜は思った。

確信はない。

だが、歩調が似ていた。


名前を口に出すことはしない。

名前を呼べば、影は人になってしまう。


やがて足音は遠ざかる。

そのあいだ、紗夜は座ったまま動かなかった。

影が通り過ぎるのを待つように。


庭に目を向ける。

山茶花の木が、暗さの中に沈んでいる。

咲いているのか、

すでに落ちているのか、

判別がつかない。


風が吹くと、枝が揺れ、

影も一緒に揺れる。

実体と影が、同じ動きをしている。


ふと、廊下に人影が落ちる。

それは、はっきりとした形ではない。

柱に遮られ、途中で切れている。


紗夜は視線を上げる。

そこに、久遠が立っていた。


互いに言葉はない。

だが、影だけは重なっている。


二人の影は、完全には重ならない。

少しずれて、床に並ぶ。

そのずれが、

距離なのか、時間なのかは分からない。


久遠が一歩動くと、影も動く。

紗夜が呼吸をすると、

それに合わせて影が揺れたように見える。


その錯覚を、否定しなかった。


「灯りをつけないのか」


久遠の声は、低く、影の中に落ちる。

響きは小さい。


「はい」


それ以上は続かない。


久遠は部屋に入らず、

廊下に立ったままだった。

境界を越えない位置。


影は、障子と床をまたいで伸びている。

だが、本人は動かない。


しばらくして、久遠は踵を返す。

影も、それに従って引き戻される。


影が消えると、

部屋は元の暗さに戻る。

だが、同じではなかった。


紗夜は、灯りをつける。

明るくなると、

影はすべて消える。


それでも、

影があった場所を、

目でなぞることはできた。


夜が深まる。

外から聞こえる音は少なくなる。


布団に入り、目を閉じても、

影はすぐには消えなかった。


それは、見るものではなく、

そこにあったという感覚として残る。


影は、人よりも先に、

関係を作る。


そう考えて、

紗夜はその言葉を、

心の中で否定した。


言葉にした瞬間、

影は意味を持ってしまう。


影は、ただ、あった。

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