音
朝、屋敷が目を覚ます前に、紗夜は起きていた。
夜と朝の境目は、音が少ない。
完全な静けさではなく、まだ選ばれていない音が、どこかに溜まっている。
布団を畳むときの擦れ。
衣擦れ。
足裏が床に触れるときの、わずかな軋み。
それらは以前からあったはずなのに、
今朝は一つずつが、離れて聞こえた。
重なり合わず、干渉もしない。
廊下を進む。
障子の向こうで、何かが動く気配がする。
人かどうかは分からない。
音は、まだ形を持っていない。
庭に出ると、鳥の声が落ちてくる。
一声だけ。
続かない。
それを合図にしたように、風が動いた。
山茶花の枝が揺れる。
花弁が触れ合い、乾いた音を立てる。
それは落ちる音ではなかった。
紗夜は縁側に腰を下ろす。
板は冷たい。
だが、長く触れていると、その冷え方にも段階があることが分かる。
背後で、足音が止まる。
振り返らなくても、それが久遠だと分かった。
歩幅と、止まり方が同じだったから。
二人の間に、言葉はない。
代わりに、呼吸の音がある。
近すぎず、遠すぎず、互いに邪魔をしない位置。
庭の奥で、何かが倒れる音がした。
木の枝かもしれない。
道具かもしれない。
確かめに行く理由は、なかった。
久遠が、ほんのわずかに体重を移動させる。
そのとき、衣の擦れる音がした。
紗夜は、それを聞き逃さなかった。
音は、意味を持たない。
だが、消えもしない。
しばらくして、屋敷の中から別の音が増え始める。
戸の開閉。
器が触れ合う音。
誰かの足取り。
それらが混ざり合うにつれ、
今ここにあった静けさは、後ろへ退いていく。
久遠が先に立ち上がる。
紗夜も、それに続く。
どちらが合図を出したわけでもない。
縁側を離れるとき、
先ほどの鳥の声は、もう聞こえなかった。
その朝にあった音は、
記録されることも、呼び戻されることもなく、
ただ、身体のどこかに残った。




