触れないまま
夜明け前、屋敷は最も静かになる。
人の気配が薄れ、建物そのものが息を潜める時間。
紗夜は目を覚ましていた。
眠っていたのかどうか、自分でも分からない。
ただ、天井の暗がりを見つめながら、呼吸だけが確かだった。
昨夜の書斎。
灯り、声、近すぎた距離。
思い出そうとせずとも、自然と浮かんでくる。
胸の奥に残る熱は、まだ消えていない。
だが、それをどう扱えばいいのかは分からなかった。
布団を抜け、そっと身支度をする。
誰にも気づかれないように、庭へ出た。
夜と朝の境目。
空は薄く白み、星が名残惜しそうに消えていく。
冷えた空気が、肺の奥まで入り込む。
山茶花の木の下に立つ。
花は、いくつか落ちている。
昨夜より、確実に増えていた。
触れずに見下ろす。
拾い上げる理由も、拾わない理由もない。
ただ、そこにあるものとして、受け止める。
「早いな」
背後から、久遠の声。
振り返ると、彼もまた外套を羽織って立っていた。
「おはようございます」
言葉はそれだけ。
だが、互いに驚いてはいなかった。
この時間にここで会うことが、
どこか自然な流れだった。
二人並んで、山茶花を見る。
沈黙は重くない。
むしろ、言葉を足さないことで保たれている均衡があった。
「……寒いか」
久遠が言う。
それは問いというより、確認だった。
「いえ」
紗夜は短く答える。
本当は少し寒い。
だが、それ以上に、この空気を手放したくなかった。
久遠は何も言わず、自分の外套を脱ぐこともなかった。
代わりに、一歩だけ近づく。
風を、ほんのわずか遮る距離。
それだけで、寒さは和らいだ。
「昨夜は」
久遠が口を開き、止める。
続きを探す沈黙。
紗夜は待った。
促さない。
この人が言葉を選ぶ時間を、奪わない。
「……何も言わずに、すまなかった」
意外な言葉だった。
謝罪だと理解するまでに、一瞬かかる。
「謝られることではありません」
紗夜は、正直に答えた。
責められたと感じたことはない。
久遠は、わずかに目を伏せる。
「そうか」
それ以上、踏み込まない。
踏み込めないのではなく、
踏み込まないことを選んでいる。
山茶花の枝が、風に揺れる。
一輪、静かに落ちる。
音は、ほとんどしなかった。
紗夜は、その瞬間を見逃さなかった。
だが、声には出さない。
「……落ちるところを、初めて見た」
久遠がぽつりと言う。
「はい」
それだけで、会話は成立していた。
触れたい、とは思わない。
触れなくていい、とも思えない。
その曖昧さが、今の二人の距離だった。
やがて、空が完全に明るくなる。
屋敷が目を覚ます時間。
「戻ろう」
久遠が言う。
紗夜は頷く。
並んで歩く廊下。
袖が、かすかに触れそうで、触れない。
それでいい、と心のどこかで思った。
部屋の前で立ち止まる。
久遠は、一瞬だけ何かを言いかけ、やめた。
「今日も、無理はするな」
昨夜と同じ言葉。
だが、今朝は違う意味を持っていた。
「はい」
戸を閉める前、ほんの一瞬だけ、視線が交わる。
その奥に、確かなものがあった。
触れないまま。
言葉にしないまま。
それでも、
沈黙は、もう逃げ場ではなかった。
山茶花の嫁は、
その沈黙の中で、
確かに何かを受け取っていた。




